名を挙げて問うて見た。中には博文館《はくぶんかん》の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡《そうせき》がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
 此《ここ》に至ってわたくしは抽斎の子が二人《ふたり》と、孫が一人《ひとり》と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
 わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳《つまびらか》にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽|信政《のぶまさ》に召し抱えられた。抽斎はその数世《すせい》の孫《そん》で、文化《ぶんか》中に生れ、安政《あんせい》中に歿《ぼっ》した。その徳川|家慶《いえよし》に謁したのは嘉永《かえい》中の事である。墓誌銘は友人|海保漁村《かいほぎょそん》が撰《えら》んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近《てぢか》にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出
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