村《こうそん》を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
 抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六|大区《だいく》六小区本所|相生町《あいおいちょう》四丁目に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木《みき》がいたばかりであるが、後《のち》には山田脩が来て同居した。脩はこの頃|喘息《ぜんそく》に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
 五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の貯《たくわえ》は殆ど尽きていたので、奈何《いかん》ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は此《ここ》に至って始《はじめ》て借りられたのである。

   その九十七

 保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に徙《うつ》れということであった。
 然《しか》るに保は入舎を欲せないので、「母病気に付《つき》当分の内《うち》通学|御《ご》許可|相成度《あいなりたく》」云々という願書を呈して、旧に依《よ》って本所から通っていた。母の病気というのは虚言《うそ》ではなかった。五百は当時眼病に罹《かか》って苦《くるし》んでいた。しかし保は単に五百の目疾《もくしつ》の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
 保は師範学校の授くる所の学術が、自己の攻《おさ》めんと欲する所のものと相反しているのを見て、窃《ひそか》に退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
 学校は米人スコットというものを雇い来《きた》って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。訛《なま》っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能《さいのう》がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があっても軽《かろ》んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、己《おのれ》が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」と罵《ののし》った。
 保は英語を操《つか》い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》う科目は絶《たえ》てなかった。また縦《たと》い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎《じゅんこ》たる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
 保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても好《い》い。また誰《たれ》かのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
 保は此《かく》の如くに思惟《しゆい》して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉《じゅんぽう》することをも怠り、早晩退学処分の我|頭上《とうじょう》に落ち来《きた》らんことを期していた。校長|諸葛信澄《もろくずのぶずみ》の家に刺《し》を通ぜない。その家が何|町《ちょう》にあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
 入舎の命令をばこの状況の下《もと》に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が降《くだ》るだろう。そうなったら、再び頂天立地《ちょうてんりっち》の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角|贏《か》ち得た官費は絶えてしまう。しかし書肆《しょし》万巻楼《まんがんろう》の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は大伝馬町《おおでんまちょう》の袋屋亀次郎《ふくろやかめじろう》で、これより先《さき》保の初《はじめ》て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
 保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島|優《ゆたか》と比良野|貞固《さだか
前へ 次へ
全112ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング