ある。
 保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を罷《や》められて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏であって、しかも此《かく》の如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
 しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても好《い》い。それよりは学校に通う保の留守居でもしましょう」といったのである。
 優はなお勧めて已《や》まなかった。そこへ一粒金丹《いちりゅうきんたん》のやや大きい注文が来た。福山、久留米《くるめ》の二カ所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまた直《すぐ》に調合に着手した。優は一旦《いったん》浦和へ帰った。
 八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても好《い》いから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいというのであった。そこで二十日に五百は水木《みき》と保とを連れて浦和へ往った。
 これより先《さき》保は高等師範学校に入《い》ることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。

   その九十五

 保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を卒《お》うるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。
 然るに此《ここ》に一つの障礙《しょうがい》があった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森|枳園《きえん》に相談した。
 枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通《ゆしまきりどお》しの借家《しゃっか》に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になった。時に年六十六である。
 枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は店造《みせづくり》で、店と次の間《ま》と台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「売卜者《ばいぼくしゃ》のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、往来《ゆきき》が絶えなかった。枳園はしばしば保を山下《やました》の雁鍋《がんなべ》、駒形《こまがた》の川桝《かわます》などに連れて往って、酒を被《こうむ》って世を罵《ののし》った。
 文部省は当時|頗《すこぶ》る多く名流を羅致《らち》していた。岡本況斎、榊原琴洲《さかきばらきんしゅう》、前田|元温《げんおん》等の諸家が皆九等|乃至《ないし》十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
 保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、己《おれ》がどうにか話を附けて遣《や》る」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
 師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
 保の同級には今の末松子《すえまつし》の外、加治義方《かじよしかた》、古渡資秀《ふるわたりすけひで》などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群《むれ》に投じ、『絵入自由新聞』に続物《つづきもの》を出したことがある。作者|名《みょう》は花笠文京《はながさぶんきょう》である。古渡は風采《ふうさい》揚《あが》らず、挙止|迂拙《うせつ》であったので、これと交《まじわ》るものは殆《ほとん》ど保|一人《いちにん》のみであった。本《もと》常陸国《ひたちくに》の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習《ろうしゅう》があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平《くわたこうへい》の家の学僕になっていて、それからこの学校に入《い》った。齢《よわい》は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は迥《はるか》に下《しも》にいた。しかし保はその人《ひと》と為《な》りの沈著《ちんちゃく》なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、暫《しばら》くして罷《や》め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重《おもん》ぜられたが、その年八月十二日に虎列拉《コレラ》を病んで歿した。その後
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