う》の杵屋勝久《きねやかつひさ》さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お父《と》うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出《いで》でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
 わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
 二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江|終吉《しゅうきち》という甥《おい》があって、下渋谷《しもしぶや》に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
 わたくしは直《すぐ》に終吉さんに手紙を出して、何時《いつ》何処《どこ》へ往ったら逢《あ》われようかと問うた。返事は直に来た。今|風邪《ふうじゃ》で寝ているが、なおったらこっちから往っても好《い》いというのである。手跡《しゅせき》はまだ少《わか》い人らしい。
 わたくしは曠《むな》しく終吉さんの病《やまい》の癒《い》えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫《とんざ》を来《きた》さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙《ひま》に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚《とのさきかく》という人を訪ねることにした。
 外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮《しょりょうりょう》にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞《かすみ》が関《せき》の三年坂上《さんねんざかうえ》にあることを教えられた。常に宮内省には往来《ゆきき》しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
 諸陵寮の小さい応接所《おうせつじょ》で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢《よわい》も相若《あいし》くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋《けいがい》故《ふる》きが如き念《おもい》をした。
 初対面の挨拶《あいさつ》が済んで、わたくしは来意を陳《の》べた。「武鑑」を蒐集している事、「古《こ》武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。

   その六

 外崎《とのさき》さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
 わたくしは釈然とした。
 抽斎渋江道純は経史子集《けいしししゅう》や医籍を渉猟して考証の書を著《あらわ》したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹《あと》を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即《すなわ》ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟《ただ》経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖《じょしょうそ》を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家《こうずか》が偶《たまたま》一顧するに過ぎないから、その目録は僅《わずか》に存して人が識《し》らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護《ほうご》を受けているのを、せめてもの僥倖《ぎょうこう》としなくてはならない。
 わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書《けいしょ》や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗《すこぶ》るわたくしと相似ている。ただその相殊《あいこと》なる所は、古今|時《とき》を異《こと》にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別《しゃべつ》がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁《ざっぱく》なるヂレッタンチスムの境界《きょうがい》を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視《み》て忸怩《じくじ》たらざることを得ない。
 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比《たぐい》ではなかった。迥《はるか》にわたくしに優《まさ》った済勝《せいしょう》の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬《いけい》すべき人である。
 然《しか》るに
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