た。そして包を開いて抽斎に鮓《すし》を薦《すす》め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。
その三十五
五百《いお》は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役《めつけやく》になっていた貞固《さだかた》は文化九年|生《うまれ》で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉|威能《いの》の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
文蔵は仮親《かりおや》になるからは、真《まこと》の親と余り違わぬ情誼《じょうぎ》がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家《わがいえ》に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を填《つ》めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張《ぶば》った男で、髪を糸鬢《いとびん》に結い、黒紬《くろつむぎ》の紋附を着ていた。そしてもう藍原氏《あいばらうじ》かなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原|右衛門《うえもん》の女《むすめ》であった時、穴隙《けつげき》を鑽《き》って相見《あいまみ》えたために、二人は親々《おやおや》の勘当を受けて、裏店《うらだな》の世帯を持った。しかしどちらも可哀《かわい》い子であったので、間もなくわびが※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》って助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
五百が抽斎に帰《とつ》いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩《ゆうとう》によって傾《かたぶ》き掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向《しむ》けて置いた首飾《しゅしょく》、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは賜物《たまわりもの》をいうのである。当時の女子《おなご》はこれに反して、主《おも》に親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を沽《う》って、夫の急を救うことを得た。またこれに先《さきだ》つこと一年に、森|枳園《きえん》が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々《のちのち》までも、衣服を欲するごとに五百に請うので、お勝《かつ》さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男|恒善《つねよし》、長女|純《いと》、次男|優善《やすよし》の五人であったが、間もなく純は出《い》でて馬場氏の婦《ふ》となった。
弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少《すくな》かった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日|生《うまれ》の三女|棠《とう》、同三年十月十九日生れの四男|幻香《げんこう》、同四年十月八日生れの四女|陸《くが》がある。四男は死んで生れたので、幻香水子《げんこうすいし》はその法諡《ほうし》である。陸は今の杵屋勝久《きねやかつひさ》さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男|恒善《つねひさ》が二十三歳で月並《つきなみ》出仕を命ぜられた。
五百《いお》の里方《さとかた》では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。相方《あいかた》は前の浜照《はまてる》であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻《さい》にした。尋《つ》いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅《わずか》に二歳になった抽斎の三女|棠《とう》に相続させ、自分は金座《きんざ》の役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告《なの》った。
五百の姉安を娶《めと》った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲《つ》いでから、終日|手杯《てさかずき》を釈《お》かず、塗物問屋《ぬりものどいや》の帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は諌《いさ》めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが為方《しかた》がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑《しじつがん》』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬《けい》お銓《せん》の二人の女《むすめ》に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百が
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