の言《こと》には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに痴《おろか》であろう。むしろ行政上無縁の墓の取締《とりしまり》があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに若《し》くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐《かい》のない事であろう。わたくしはこう考えて家に還《かえ》った。

   その十八

 わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
 府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣《ぼけつ》を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁《うえん》のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け出《い》でさせるに止《とど》まるそうである。
 そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷《うつ》されたというのは、遷したという一紙の届書《とどけしょ》が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮《しょせん》今になって戴曼公《たいまんこう》の表石や池田氏の墓碣の踪迹《そうせき》を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
 とかくするうちに、わたくしが池田|京水《けいすい》の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛
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