町、小梅町、須崎町の間を徘徊《はいかい》して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して踵《くびす》を旋《めぐら》したが、道のついでなので、須崎町|弘福寺《こうふくじ》にある先考の墓に詣でた。さて住職|奥田墨汁《おくだぼくじゅう》師を訪《とぶら》って久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両《ふた》つながらこれを知っていた。
 墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域《しんいき》内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人《ふたり》まで獲《え》たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷《うつ》す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後《のち》は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然《ぶぜん》とした。

   その十七

 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方《ゆくえ》は探討したいものである。それに戴曼公《たいまんこう》の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷《うつ》されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに往《ゆ》きたいものであるといった。
 墨汁師も首肯していった。戴氏|独立《どくりゅう》の表石の事は始《はじめ》て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗《おうばく》の衣鉢《いはつ》を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師|隠元《いんげん》を黄檗山に省《せい》しに上《のぼ》る途中で寂《じゃく》したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔《がはつとう》の類《たぐい》ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々《むきむき》へ
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