ち》を襲った。遽《にわか》に見れば、なんの怪《あやし》むべき所もない。
 しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田|京水《けいすい》である。
 京水は独美の子であったか、甥《おい》であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙|晋《しん》の子|直温《ちょくおん》の撰んだ過去帖《かこちょう》には、独美の弟|玄俊《げんしゅん》の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣《つ》ぐことが出来ないで、自立して町医《まちい》になり、下谷《したや》徒士町《かちまち》に門戸《もんこ》を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
 種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆《ろう》を恐れ、癌《がん》を恐れ、癩《らい》を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛《さかん》なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後《のち》、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血《えけつ》だとか、後天《こうてん》の食毒《しどく》だとかいって、諸家は各《おのおの》その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻《へんぺき》の治法を斥《しりぞ》けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。

   その十六

 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水《けいすい》に及ぶに当って、ここに京水の身上《しんしょう》に関する疑《うたがい》を記《しる》して、世の人の教《おしえ》を受けたい。
 わたくしは今これを筆に上《のぼ》するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪《と》い、また幾多の先輩知友を煩《わずら》わして解決を求めた。しかしそれは概《おおむ》ね皆|徒事《いたずらごと》であった。就中《なかんずく》憾《うらみ》とすべきは京水の墓の失踪《しっそう》した事である。
 最初にわたくしに京水の
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