きょうていけん》を宗《そう》とする治法を施したのである。曼公、名は笠《りつ》、杭州《こうしゅう》仁和県《じんわけん》の人で、曼公とはその字《あざな》である。明《みん》の万暦《ばんれき》二十四年の生《うまれ》であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国《すおうのくに》岩国《いわくに》に足を留めていた時、池田|嵩山《すうざん》というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川《きっかわ》家の医官で、名を正直《せいちょく》という。先祖《せんそ》は蒲冠者《かばのかんじゃ》範頼《のりより》から出て、世々《よよ》出雲《いずも》におり、生田《いくた》氏を称した。正直の数世《すせい》の祖|信重《しんちょう》が出雲から岩国に遷《うつ》って、始《はじめ》て池田氏に更《あらた》めたのである。正直の子が信之《しんし》、信之の養子が正明《せいめい》で、皆曼公の遺法を伝えていた。
然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子|独美《どくび》は僅《わずか》に九歳であった。正明は法を弟|槙本坊詮応《まきもとぼうせんおう》に伝えて置いて瞑《めい》した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国《あきのくに》厳島《いつくしま》に遷った。厳島に疱瘡が盛《さかん》に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往《ゆ》き、西堀江《にしほりえ》隆平橋《りゅうへいばし》の畔《ほとり》に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
独美は寛政四年に京都に出て、東洞院《ひがしのとういん》に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川|家斉《いえなり》に辟《め》されて、九年に江戸に入《い》り、駿河台《するがだい》に住んだ。この年三月独美は躋寿館《せいじゅかん》で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸《いがい》は向島《むこうじま》小梅村《こうめむら》の嶺松寺《れいしょうじ》に葬られた。
独美、字は善卿《ぜんけい》、通称は瑞仙《ずいせん》、錦橋《きんきょう》また蟾翁《せんおう》と号した。その蟾翁と号したには面白い
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