じろう》といった。金次郎は「己《おれ》は芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は終《おわり》に臨んで子らに遺言《ゆいごん》し、勝久を小母《おば》と呼んで、後事《こうじ》を相談するが好《よ》いといったそうである。
二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿《しんじゅく》の岩松《いわまつ》というもので、養父の小字《おさなな》小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘《なびろめ》の会を催した。いまだ幾《いくば》くならぬに、小三郎は養父の小字を名告《なの》ることを屑《いさぎよ》しとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事は輒《たやす》く認容せられなかった。小三郎は遂に葛藤《かっとう》を生じて離縁せられた。
是《ここ》において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は親戚《しんせき》と父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の鞭策《べんさく》の下に、いやいやながら腕を磨《みが》いた。
金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が累《るい》をなし、目に丁字《ていじ》なき儕輩《せいはい》の忌む所となって、杵勝同窓会幹事の一人《いちにん》たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数《しばしば》であったが、固《もと》より些《ちと》の学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥《びょうが》しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》は海光山《かいこうざん》長谷寺《ちょうこくじ》の座敷である。勝三郎は病がとかく佳候《かこう》を呈せなかったが、当時なお杖に扶《たす》けられて寺門《じもん》を出《い》で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、病牀《びょうしょう》の慰草《なぐさみぐさ》にもといって遣《おく》った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ※[#「やまいだれ+差」、第4水準2
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