山だというから、豊後国《ぶんごのくに》臼杵《うすき》の稲葉家で、当時の主公|久通《ひさみち》に麻布|土器町《かわらけちょう》の下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、立唄《たてうた》は坂田仙八《さかたせんぱち》、脇勝久で、皆稲葉家の名指《なざし》であった。仙人は亡人《なきひと》で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀《つるかめ》」、「初時雨《はつしぐれ》」、「喜撰《きせん》」で、末に好《このみ》として勝三郎と仙八とが「狸囃《たぬきばやし》」を演じた。
 演奏が畢《おわ》ってから、勝三郎らは花園を観《み》ることを許された。園《その》は太《はなは》だ広く、珍奇な花卉《かき》が多かった。園を過ぎて菜圃《さいほ》に入《い》ると、その傍《かたわら》に竹藪《たけやぶ》があって、筍《たけのこ》が叢《むらが》り生じていた。主公が芸人らに、「お前たちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰って好《い》いから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が抽《ぬ》けると共に、尻餅《しりもち》を擣《つ》くものもあった。主公はこれを見て興に入《い》った。筍の周囲の土は、予《あらかじ》め掘り起して、鬆《ゆる》めた後《のち》にまた掻《か》き寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易《たやす》く抜くことを得なかった。家苞《いえづと》には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数には洩《も》れなかった。
 前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相|慶寧《よしやす》、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸《かなまる》、小笠原家が豊千代丸《とよちよまる》、黒田家が少将|慶賛《よしすけ》、本多家が主膳正《しゅぜんのかみ》康穣《やすしげ》の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑《かちゅう》家世《かせい》の事に精《くわ》しくないから、もし誤謬《ごびゅう》があったら正してもらいたい。
 勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘《なびろ》めの大浚《おおざらい》を催した。浚場《さらいば》の間口《まぐち》の天幕は深川の五本松門弟|中《じゅう》、後幕《うしろまく》は魚河岸問屋《うおがしどいや》今和《いまわ》と緑町門弟中、水引《みずひき》は牧野家であった。その外家元門弟中よ
前へ 次へ
全223ページ中215ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング