年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町《いいだまち》補習学会|及《および》神田猿楽町|有終《ゆうしゅう》学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国|磐田郡《いわたごおり》袋井《ふくろい》駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜《ぼく》して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを落《らく》した。脩は駿河国|駿東郡《すんとうごおり》佐野《さの》駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
二十五年には保の次男|繁次《しげじ》が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教《しきょう》童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に解傭《かいよう》を請うて入京し、芝|愛宕下町《あたごしたちょう》に住んで、京橋|西紺屋町《にしこんやちょう》秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男|行晴《ゆきはる》が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋《かわたび》の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男|行晴《ゆきはる》が四月十三日に三歳にして歿した。陸《くが》が十二月に本所|松井町《まついちょう》三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅《きょたく》である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび優《ゆたか》のために頓挫《とんざ》したが、その後《ご》は継続して今日《こんにち》に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎|市《いち》が谷《や》工場の欧文校正係に転じて、牛込《うしごめ》二十騎町《にじっきちょう》に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に根本羽嶽《ねもとうがく》の門に入《い》って易を問うことを始めた。長井金風《ながいきんぷう》さんの言《こと》に拠《よ》るに、羽嶽の師は野上陳令《のがみちんれい》、陳令の師は山本|北山《ほくざん》だそうである。栗本|鋤雲《じょうん》が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の妾《しょう》が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田
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