》に守成《しゅせい》を事としていた。然るに明治十一、二年の交《こう》、道悦が松田|道夫《どうふ》の下《もと》にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻《さい》が東京にあって投機のために多く金を失った。その後《のち》道悦は保が重野《しげの》成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に先《さきだ》って死んだ。
 尺振八《せきしんぱち》もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
 抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海|暁鐘《ぎょうしょう》新報』の主筆になった。英学校の職は故《もと》の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、前島豊太郎《まえじまとよたろう》という人を社主としていた。五年|前《ぜん》に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の耳目《じもく》を驚《おどろか》した人で、天保六年の生《うまれ》であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等|英華《えいか》学校に聘《へい》せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託《ぞくたく》を受けて、英語を生徒に授けた。
 抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民《なかえちょうみん》が静岡を過ぎて保を訪《と》うた。兆民は前年の暮に保安条例に依《よ》って東京を逐《お》われ、大阪|東雲《しののめ》新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男|三吉《さんきち》が生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町《たかじょうまち》二丁目に設くることを認可せられた。
 脩《おさむ》は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより先《さき》脩は渋江氏に復籍していた。
 脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下|駿河国《するがのくに》安倍郡《あべごおり》豊田村《とよだむら》曲金《まがりがね》の素封家|海野寿作《うんのじゅさく》の娘分《むすめぶん》である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
 この年九月十五日に、保の許《もと》に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が悪作劇《いたずら》と
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