|安《やす》の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にも軽《かろ》んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前に項《うなじ》を屈せなくてはならない。五百は里方のために謀《はか》って、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき身代《しんだい》を、妹として譲り受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これに喙《くちばし》を容《い》れることが出来ぬであろう。永久に兄を徳として、その為《な》すがままに任せていなくてはなるまい。五百は此《かく》の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去って渋江氏に適《ゆ》き、しかもその渋江氏の力を藉《か》りて、この家の上に監督を加えようとするのである。
 貞白は直《すぐ》に抽斎を訪《と》うて五百の願《ねがい》を告げ、自分も詞《ことば》を添えて抽斎を説き動《うごか》した。五百の婚嫁は此《かく》の如くにして成就したのである。

   その百八

 保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の編輯員《へんしゅういん》になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は沼間守一《ぬましゅいち》、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎《はたのでんざぶろう》という顔触《かおぶれ》で、編輯員には肥塚龍《こえづかりゅう》、青木|匡《ただす》、丸山|名政《めいせい》、荒井泰治《あらいたいじ》の人々がいた。また矢野次郎、角田真平《つのだしんぺい》、高梨哲四郎《たかなしてつしろう》、大岡|育造《いくぞう》の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を罷《や》めた。九月一日には家を芝|桜川町《さくらがわちょう》十八番地に移した。
 脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
 水木《みき》はこの年山内氏を冒して芝|新銭座町《しんせんざちょう》に一戸を構えた。
 抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森|枳園《きえん》の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、何時《いつ》往ったら逢《あ》われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区|水谷町《みずたに
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