。上等の同学生には犬養毅《いぬかいき》さんの外、矢田績《やだせき》、安場《やすば》男爵があり、また同県人に坂井次永《さかいじえい》、神尾金弥《かみおきんや》があった。後《のち》の二人は旧会津藩士である。
 万来舎では今の金子《かねこ》子爵、その他|相馬永胤《そうまながたね》、目賀田《めがた》男爵、鳩山和夫《はとやまかずお》等が法律を講ずるので、保も聴いた。
 山田脩はこの年電信学校に入《い》って、松本町の家から通った。陸《くが》の勝久が長唄を人に教うる旁《かたわら》、音楽取調所の生徒となったのもまたこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽《ほうが》である。この頃|水木《みき》は勝久の許《もと》を去って母の家に来た。
 この年また藤村義苗《ふじむらよしたね》さんが浜松から来て渋江氏に寓《ぐう》した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を卒《お》え、遠江国|中泉《なかいずみ》で小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に入《い》ってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。
 松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
 抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って聘《へい》せんと欲する所で、その世話をする人は主《おも》に小幡篤次郎《おばたとくじろう》であった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2−84−70]《つ》きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。
 この年もまた卒業生の決口《はけくち》は頗《すこぶ》る多かった。保の如きも第一に『三重《みえ》日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田|茂吉《もきち》に三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校の地位に心を傾《かたぶ》けたために、半途にして交渉を絶った。
 学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵《あべたいぞう》と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴
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