いた。そこへ遽《にわか》に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが余《よ》の人ならば、宿料《しゅくりょう》を取ることも出来よう。貞固は己《おのれ》が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの界隈《かいわい》ではまだ糸鬢奴《いとびんやっこ》のお留守居《るすい》を見識《みし》っている人が多い。それを横網町の下宿に舎《やど》らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
 保はこれを忍んで数カ月間三人を※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待《かんたい》した。そして殆ど日々《にちにち》貞固を横山町の尾張屋に連れて往って馳走《ちそう》した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
 矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店《しちみせ》を開いたが成功しなかった。浅越は名を隆《りゅう》と更《あらた》めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸|生《うまれ》の長女ふくは中沢彦吾《なかざわひこきち》の弟彦七の妻になり、男子|二人《ににん》の中《うち》、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
 五百と一しょに東京に来た陸《くが》が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店《さとうみせ》を開いたのもこの年の事である。長尾の女《むすめ》敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町《さるわかちょう》の引手茶屋《ひきてぢゃや》は、この年十月に新富町《しんとみちょう》に徙《うつ》った。守田勘弥《もりたかんや》の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
 この年六月に海保|竹逕《ちくけい》が歿した。文政七年|生《うまれ》であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来|復《また》弁之助と称せずして、名の元起《げんき》を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の妾《しょう》某氏と竹逕の子女|各《おのおの》一人《いちにん》とである。嗣子|繁松《しげまつ》は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田|篁
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