《ま》と台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「売卜者《ばいぼくしゃ》のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、往来《ゆきき》が絶えなかった。枳園はしばしば保を山下《やました》の雁鍋《がんなべ》、駒形《こまがた》の川桝《かわます》などに連れて往って、酒を被《こうむ》って世を罵《ののし》った。
文部省は当時|頗《すこぶ》る多く名流を羅致《らち》していた。岡本況斎、榊原琴洲《さかきばらきんしゅう》、前田|元温《げんおん》等の諸家が皆九等|乃至《ないし》十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、己《おれ》がどうにか話を附けて遣《や》る」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
保の同級には今の末松子《すえまつし》の外、加治義方《かじよしかた》、古渡資秀《ふるわたりすけひで》などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群《むれ》に投じ、『絵入自由新聞』に続物《つづきもの》を出したことがある。作者|名《みょう》は花笠文京《はながさぶんきょう》である。古渡は風采《ふうさい》揚《あが》らず、挙止|迂拙《うせつ》であったので、これと交《まじわ》るものは殆《ほとん》ど保|一人《いちにん》のみであった。本《もと》常陸国《ひたちくに》の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習《ろうしゅう》があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平《くわたこうへい》の家の学僕になっていて、それからこの学校に入《い》った。齢《よわい》は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は迥《はるか》に下《しも》にいた。しかし保はその人《ひと》と為《な》りの沈著《ちんちゃく》なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、暫《しばら》くして罷《や》め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重《おもん》ぜられたが、その年八月十二日に虎列拉《コレラ》を病んで歿した。その後
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