に大学|南校《なんこう》にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの許《もと》を訪うて教を受けた。フルベックは本《もと》和蘭《オランダ》人で亜米利加《アメリカ》合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人《いちにん》である。
 学資は弘前藩から送って来る五人扶持の中《うち》三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場《そうば》で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より新《あらた》に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本《しゅたくぼん》を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集《しゅうしゅう》した古刊本等の大部分が海若《かいじゃく》の有《ゆう》に帰《き》した。
 八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社|調掛《しらべがかり》を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に入《い》ることを届けて置いたので、同時に「欠席|聞届《ききとどけ》の委頼《いらい》」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の詔《みことのり》を以て廃藩置県の制が布《し》かれたので、弘前県が成立していたのである。
 矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津《からつ》藩士|大沢正《おおさわせい》の女《むすめ》蝶《ちょう》を娶《めと》った。嘉永二年|生《うまれ》で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤《かっとう》を経た後《のち》に離別せられていた。
 優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
 成善と倶《とも》に東京に来た松本|甲子蔵《きねぞう》は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後《のち》兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
 当時県吏の権勢は盛《さかん》なものであった。成善が東京に入《い》った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕龍《かご》一挺を宰領させて成善を県の界《さかい》に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛
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