こ》で、遊蕩《ゆうとう》のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好《い》いので、豊芥子の筆耕に傭《やと》われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
 森|枳園《きえん》が小野富穀《おのふこく》と口論をしたという話があって、その年月を詳《つまびらか》にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は山城河岸《やましろがし》の津藤《つとう》の家であった。例の如く文人、画師《えし》、力士、俳優、幇間《ほうかん》、芸妓《げいぎ》等の大一座で、酒|酣《たけなわ》なる比《ころ》になった。その中に枳園、富穀、矢島|優善《やすよし》、伊沢|徳安《とくあん》などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒《いか》って、七代目|賽《もどき》のたんかを切り、胖大漢《はんだいかん》の富穀をして色を失って席を遁《のが》れしめたそうである。富穀もまた滑稽《こっけい》趣味においては枳園に劣らぬ人物で、臍《へそ》で烟草《タバコ》を喫《の》むという隠芸《かくしげい》を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰《たれ》も思い掛《か》けぬので、優善、徳安の二人は永くこの喧嘩《けんか》を忘れずにいた。想うに貨殖《かしょく》に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着《むとんじゃく》な枳園とは、その性格に相容《あいい》れざる所があったであろう。津藤《つとう》即ち摂津国屋《つのくにや》藤次郎《とうじろう》は、名は鱗《りん》、字は冷和《れいわ》、香以《こうい》、鯉角《りかく》、梅阿弥《ばいあみ》等と号した。その豪遊を肆《ほしいまま》にして家産を蕩尽《とうじん》したのは、世の知る所である。文政五年|生《うまれ》で、当時四十歳である。
 この年の抽斎が忌日《きにち》の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地《なかばしうめち》の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅《ていたく》を移す時も、家財と共にこれを新居に搬《はこ》び入れて、一年間位|鄭重《ていちょう》に保護《ほうご》していた。

   その七十三

 抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版|薄葉刷《うすようずり》の『医方類聚《いほうるいじゅ》』を献ずる
前へ 次へ
全223ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング