とになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年|生《うまれ》で四十五歳になっていた。
周禎の妻を高《たか》といって、已《すで》に四子を生んでいた。長男|周碩《しゅうせき》、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得《しょうとく》不調法《ぶちょうほう》にして仕宦《しかん》に適せぬと称して廃嫡を請い、小田原《おだわら》に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
これより先《さき》優善が隠居の沙汰《さた》を蒙《こうむ》った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も憤《いきどお》ったものは比良野|貞固《さだかた》である。貞固は優善を面責《めんせき》して、いかにしてこの辱《はずかしめ》を雪《すす》ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入《い》って勉学したいと答えた。
貞固は先ず優善が改悛《かいしゅん》の状を見届けて、然《しか》る後《のち》に入塾せしめるといって、優善と妻|鉄《てつ》とを自邸に引き取り、二階に住《すま》わせた。
さて十月になってから、貞固は五百《いお》を招いて、倶《とも》に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊《いささか》の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好《い》いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡《うりわたし》のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁《へ》の糟《かす》という渾名《あだな》をさえ附けていたそうである。
山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾《いくばく》もあらぬに梅林松弥《うめばやしまつや》というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後《のち》此《ここ》に来たもので、維新後名を潔《けつ》と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
比良野氏ではこの年同藩の物頭《ものがしら》二百石|稲葉丹下《いなばたんげ》の次男|房之助《ふさのすけ》を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生ま
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