問屋《かつおぶしどいや》新井屋半七《あらいやはんしち》というものに嫁していた。良清の長男|直之助《なおのすけ》は早世して、跡には養子|孫三郎《まござぶろう》と、延の妹|路《みち》とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
抽斎歿後の第二年は万延《まんえん》元年である。成善《しげよし》はまだ四歳であったが、夙《はや》くも浜町中屋敷の津軽|信順《のぶゆき》に近習として仕えることになった。勿論《もちろん》時々機嫌を伺いに出るに止《とど》まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎《やがわぶんいちろう》というものがあって、穉《おさな》い成善の世話をしてくれた。
矢川には本末《ほんばつ》両家がある。本家は長足流《ちょうそくりゅう》の馬術を伝えていて、世文内《よよぶんない》と称した。先代文内の嫡男|与四郎《よしろう》は、当時|順承《ゆきつぐ》の側用人になって、父の称を襲《つ》いでいた。妻|児玉《こだま》氏は越前国|敦賀《つるが》の城主|酒井《さかい》右京亮《うきょうのすけ》忠※[#「田+比」、第3水準1−86−44]《ただやす》の家来某の女《むすめ》であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛《そうべえ》といい、此《これ》を岡野《おかの》といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田|小十郎《こじゅうろう》の女《むすめ》みつを娶《めと》った。岡野は順承附の中臈《ちゅうろう》になった。実は妾《しょう》である。
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的《はやしゆうてき》の妻、佐竹永海《さたけえいかい》の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納《い》れた。某《それ》の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を※[#「てへん+參」、198−15]《と》ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜《お》ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を著《き》せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅《かいこう》した。そして佐竹の数人の芸妓《げいぎ》に囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄|色《いろ》を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を掻《か》いて苦笑したそうである。
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこ
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