十四歳で亡くなったから、己も兼《かね》て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子《ろうし》』の註を始《はじめ》として、迷庵|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》に誓った為事《しごと》を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に肆《ほしいまま》にせしむるに至らなかった。

   その五十三

 八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐《ばんさん》の饌《ぜん》に向った。しかし五百が酒を侑《すす》めた時、抽斎は下物《げぶつ》の魚膾《さしみ》に箸《はし》を下《くだ》さなかった。「なぜ上《あが》らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐《おうど》があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
 多紀|安琢《あんたく》、同《おなじく》元佶《げんきつ》、伊沢柏軒、山田|椿庭《ちんてい》らが病牀《びょうしょう》に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広《ぎょうこう》、通称は昌栄《しょうえい》である。抽斎の父|允成《ただしげ》の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国《こうずけのくに》高崎の城主松平|右京亮《うきょうのすけ》輝聡《てるとし》の家来で、本郷|弓町《ゆみちょう》に住んでいた。
 抽斎は時々《じじ》譫語《せんご》した。これを聞くに、夢寐《むび》の間《あいだ》に『医心方』を校合《きょうごう》しているものの如くであった。
 抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言《ゆいごん》の中《うち》に、兼て嗣子と定めてあった成善《しげよし》を教育する方法があった。経書《けいしょ》を海保漁村に、筆札《ひっさつ》を小島成斎に、『素問《そもん》』を多紀安琢に受けしめ、機を看《み》て蘭語《らんご》を学ばしめるようにというのである。
 二十八日の夜|丑《うし》の刻に
前へ 次へ
全223ページ中102ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング