ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家《ばつけ》の※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》が六十三歳で歿し、十一月に向《むこう》柳原《やなぎはら》の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭が既に逝《ゆ》いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の子|安琢《あんたく》が多紀安琢二百俵、父|楽春院《らくしゅんいん》として載せてあり、暁湖は旧に依《よ》って多紀|安良《あんりょう》法眼《ほうげん》二百俵、父|安元《あんげん》として載せてある。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何《なん》の故なるを詳《つまびらか》にしない。
その五十二
※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、名は元堅《げんけん》、字《あざな》は亦柔《えきじゅう》、一に三松《さんしょう》と号す。通称は安叔《あんしゅく》、後《のち》楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山《けいざん》の次男に生れた。幼時犬を闘《たたか》わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若《し》かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾《いくばく》もなくして節を折って書を読み、精力|衆《しゅう》に踰《こ》え、識見|人《ひと》を驚かした。分家した初《はじめ》は本石町《ほんこくちょう》に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄《ちつろく》は宗家《そうか》と同じく二百俵三十人扶持である。
※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌《やくじ》を給するのみでなく、夏は蚊※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かや》を貽《おく》り、冬は布団《ふとん》を遣《おく》った。また三両から五両までの金を、貧窶《ひんる》の度に従って与えたこともある。
※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は抽斎の最も親しい友の一人《ひとり》で、二家《にか》の往来は頻繁《ひん
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