、名を徳瑛《とくえい》、字《あざな》を魯直《ろちょく》といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女《むすめ》は名を初《はつ》といった。
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生《へいぜい》の学術上|研鑽《けんさん》の外に最も多く思《おもい》を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手《くにがって》の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克《か》たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位《くらい》にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢《あえ》てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾《うら》むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起《た》つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟《きし》を明《あきらか》にする時期の早きを致すことが出来なかった。
その五十一
安政四年には抽斎の七男|成善《しげよし》が七月二十六日を以て生れた。小字《おさなな》は三吉《さんきち》、通称は道陸《どうりく》である。即ち今の保《たもつ》さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣《えな》を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧《しゅくけい》であったが、嘉永三、四年の頃|癲癇《てんかん》を病んで、低能の人と化していた。天保六年の生《うまれ》であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方《やくほう》として用いんがためであった。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜《ひとよ》を泣き明したのは、昔抽斎の父|允成《ただしげ》の茶碗の余瀝《よれき》を舐《ねぶ》ったという老尼|妙了《みょうりょう》である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎《つね》に小児《しょうに》の世話をしていたが、中にも抽斎の三女|棠《とう》を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬとい
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