「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が本所緑町の別荘である。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は毎月《まいげつ》一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此《ここ》に集《つど》えた。諸子は環坐して古本《こほん》を披閲し、これが論定をなした。会の後《のち》には宴を開いた。さて二州橋上酔《にしゅうきょうじょうえい》に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子※[#「「褒」の「保」に代えて「臼」」、第4水準2−88−19]録《ほうろく》惟《こ》れ勤め、各部|頓《とみ》に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
わたくしはこの年の地震の事を語るに先《さきだ》って、台所町の渋江の家に座敷牢《ざしきろう》があったということに説き及ぼすのを悲《かなし》む。これは二階の一室《いっしつ》を繞《めぐら》すに四目格子《よつめごうし》を以てしたもので、地震の日には工事既に竣《おわ》って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出《いだ》さざることを得なかったであろう。
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男|優善《やすよし》がために設けたものであった。
その四十七
抽斎が岡西氏|徳《とく》に生《うま》せた三人の子の中《うち》、ただ一人《ひとり》生き残った次男優善は、少時《しょうじ》放恣《ほうし》佚楽《いつらく》のために、頗《すこぶ》る渋江|一家《いっか》を困《くるし》めたものである。優善には塩田良三《しおだりょうさん》という遊蕩《ゆうとう》夥伴《なかま》があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖《つえ》を立てて歩いたという楊庵《ようあん》が、家附《いえつき》の女《むすめ》に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と嗜《たしみ》を異にして、煙草を喫《の》んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴《けんてき》の量なくして、あらゆる遊戯に耽《ふけ》ったのである。
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年|生《うまれ》の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保
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