である。後十一歳にして夭札《ようさつ》した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼《うごか》して起《た》たしめたものは、独《ひとり》地震のみではなかった。
学問はこれを身に体し、これを事に措《お》いて、始《はじめ》て用をなすものである。否《しからざ》るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽《けんさん》して造詣《ぞうけい》の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径《ただ》ちにこれを事に措こうとはしない。その※[#「石+乞」、第4水準2−82−28]々《こつこつ》として年《とし》を閲《けみ》する間には、心頭|姑《しばら》く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此《かく》の如くにして始て贏《か》ち得らるるものである。
この用無用を問わざる期間は、啻《ただ》に年《とし》を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累《かさ》ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然《せつぜん》として二をなしている。もし時務の要求が漸《ようや》く増長し来《きた》って、強いて学者の身に薄《せま》ったなら、学者がその学問生活を抛《なげう》って起《た》つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
わたくしは安政二年に抽斎が喙《かい》を時事に容《い》るるに至ったのを見て、是《かく》の如き観をなすのである。
その四十六
米艦が浦賀《うらが》に入《い》ったのは、二年|前《ぜん》の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦《ふね》が再び浦賀に来て、六月に下田《しもだ》を去るまで、江戸の騒擾《そうじょう》は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑《かっちゅう》の準備を令した。動員の備《そなえ》のない軍隊の腑甲斐《ふがい》なさが覗《うかが》われる。新将軍|家定《いえさだ》の下《もと》にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年《こんねん》に入《い》ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘《ぼんしょう》を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔《みことのり》が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れ
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