である。そして「飛んで行くな」と思つた。鳥を見る方が畑を見るより好きなのである。学士は青々とした遠い果で、鳥が段々小さくなつて消えてしまふのを、顔を蹙《しか》めて見てゐて、自ら慰めるやうに、かう思つた。「どうせ遁《のが》れつこはないよ。こゝで死なゝければ余所《よそ》で死ぬるのだ。死なゝくてはならない。」
心好げに緑いろに萌えてゐる畑を見れば、心持がとうとう飽くまで哀れになつて来る。「これはいつまでもこんなでゐるのだ。古い古い昔からの事だ。冢穴《つかあな》の入口でも、自然は永遠に美しく輝いてゐるといふ詞があつたつけ。平凡な話だ。馬鹿な。こつちとらはもうそんな事を言ふやうな、幼稚な人間ではない。そんな事はどうでも好い。己が物を考へても、考へなくても、どうでも好い」と考へて、学士は痙攣状に顔をくしや/\させて、頭を右左にゆさぶつて、窓に顔を背《そむ》けて、ぼんやりして部屋の白壁を見詰めてゐた。
頭の中には、丁度濁水から泡が水面に浮き出て、はじけて、八方へ散らばつてしまふやうに、考へが出て来る。近頃になつてかういふことが度々ある。殊に「今日で己は六十五になる、もう死ぬるのに間もあるまい」と
前へ
次へ
全27ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング