に入る最初の刹那までしか、灼熱の状態を維持してはゐないですね。それは互に温め合ふからですね。そこであのてらてら光つてゐる、太陽のしやあつく面に暗い斑点が一つ出来るといふと、その時に均衡が破れる。斑点は一般に温度を維持しないで、却て寒冷を放散する。あの可哀い寒冷ですね。寒冷を放散して広がる。広がれば広がる程、寒冷を放散する。それが逆比例をなして行く。そこで八方から暗い斑点に囲まれてゐると云はうか、実は一個の偉大なる斑点に囲まれてゐる太陽の面が四分の一残つてゐるとお思ひなさい。さうなればもう一年、事に依つたら二年で消えてしまひますね。そこでわたくしは試験を始めたのです。化学上太陽と同じ質の合金を拵へました。先生。そこで何を見出したとお思ひですか。」
「そこで」と、学士は問うた。
「地球が冷えるですな。冷えた日には美どころの騒ぎぢやあありますまい。それはすぐではありません。無論すぐではありません。併し五六千年立つといふと。」
「どうなる」と、学士は叫んだ。
「たかが五六千年立つと、冷え切ります。」
学士は黙つてゐる。
「それが分かつたもんですから、わたくしはそれをみんなに話して、笑つたのですよ。」
「笑つたのだと」と、学士は問うた。
「えゝ。愉快がつたのです。」
「愉快がつたのだと。」
「非常に喜んだのです。一体。」
「ひひひ」と、学士が忽然笑ひ出した。
患者はなんとも判断し兼ねて、黙つてゐる。併し学士はもう患者なんぞは目中に置いてゐない。笑つて笑つて、息が絶え絶えになつてゐる。そこで腰を懸けて、唾を吐いて、鼻を鳴らした。鼻目金が落ちた。黒い服の裾が熱病病みの騒ぎ出した時のやうに閃いてゐる。顔はゴム人形の悪魔が死に掛かつたやうに、皺だらけになつてゐる。
「五千年でかい。ひひひ。こいつは好い。こいつは結構だ。ひひひ。」
患者は学士を見てゐたが、とうとう自分も笑ひ出した。初めは小声で、段々大声になつて笑つてゐる。
そんな風で二人は向き合つて、嬉しいやうな、意地の悪いやうな笑声を立てゝゐる。そこへ人が来て、二人に躁狂者《さうきやうしや》に着せる着物を着せた。
底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「東亜之光 五ノ九」
1910(明治43)年9月1日
入力:tatsuki
校正:ちはる
2002年3月5日公開
2005年11月21日修正
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