いふものが生きてゐて、それが死を思つてひどく煩悶しました。又いつの未来だか知らないが、サロモ第二世といふものが生れて来て、同じ事を思つて、ひどく煩悶するでせう。わたくしが初めて非常な愉快を感じて、或る少女に接吻しますね。そしてわたくしの顔に早くも永遠なる髑髏の微笑が舎《やど》る時、幾百万かののろい男が同じやうな愉快を感じて接吻をするでせう。どうです。わたくしの話は重複して参りましたかな。」
「ふん。」
「そこでこの下等な犬考《いぬかんが》へからどんな結論が出て来ますか。それは只一つです。なんでも理想でなくて、事実であるものは、自然の為めには屁の如しです。お分かりになりますか。自然はこちとらに用はないのです。我々の理想を取ります。我々がどうならうが、お構ひなしです。わたくしは苦痛を閲《けみ》し尽して、かう感じます。いやはや。自然の奴め。丸で構つてはくりやがらない。それなのに何も己がやきもきせずともの事だ。笑はしやあがる。口笛でも吹く外はない。」
患者は病院ぢゆうに響き渡るやうな口笛を吹いた。学士はたしなめるやうに、しかも器械的に云つた。「それ見るが好い。お前の当り前でないことは。」
「当り前でないですつて。気違ひだといふのですか。それはまだ疑問ですね。へえ。まだ大いに疑問ですね。無論わたくしは少し激昂しました。大声《たいせい》を放つたり何かしました。併しそれに何も不思議はないぢやありませんか。不思議はそこではなくて、別にあります。不思議なのは、人間といふ奴が、始終死ぬ事を考へてゐて、それを気の遠くなるまでこはがつてゐて、死の恐怖の上に文化の全体を建設して置いて、その癖ひどく行儀よくしてゐて、真面目に物を言つて、体裁好く哀れがつて、時々はハンケチを出して涙を拭いて、それから黙つて、日常瑣末な事を遣つ附けて、秩序安寧を妨害せずにゐるといふ事実です。それが不思議です。わたくしの考へでは、こんな難有い境遇にゐて、行儀好くしてゐる奴が、気違ひでなければ、大馬鹿です。」
この時学士は自分が好い年をして、真面目な身分になつてゐて、折々突然激怒して、頭を壁にぶつ附けたり、枕に噛み附いたり、髪の毛をむしり取らうとしたりすることのあるのを思ひ出した。
「それがなんになるものか」と、学士は顔を蹙《しか》めて云つた。
患者は暫く黙つてゐて、かう云ひ出した。「無論です。併し誰だつて苦しければどなります。どなると、胸が透《す》くのです。」
「さうかい。」
「さうです。」
「ふん。そんならどなるが好い。」
「自分で自分を恥ぢることはありません。評判の意志の自由といふ奴を利用して、大いに助けてくれをどなるのですね。さう遣つ附ければ、少くも羊と同じやうに大人しく屠所に引かれて行くよりは増しぢやあありませんか。少くも誰でもそんな時の用心に持つてゐる、おめでたい虚偽なんぞを出すよりは増しぢやあありませんか。一体不思議ですね。人間といふ奴は本来奴隷です。然るに自然は実際永遠です。事実に構はずに、理想を目中《もくちう》に置いてゐます。それを人間といふ奴が、あらゆる事実中の最も短命な奴の癖に、自分も事実よりは理想を尊ぶのだと信じようとしてゐるのですね。こゝに一人の男があつて、生涯誰にも優しい詞を掛けずに暮すですな。そいつが人類全体を大いに愛してゐるかも知れません。一体はその方が高尚でせう。真の意義に於いての道徳に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》つてゐるでせう。それに人間が皆絶大威力の自然といふ主人の前に媚び諂《へつら》つて、軽薄笑ひをして、おとなしく羊のやうに屠所へ引いて行かれるのですね。ところが、その心のずつと奥の所に、誰でも哀れな、ちつぽけな、雀の鼻位な、それよりもつとちつぽけな希望を持つてゐるのですね。どいつもこいつも Lasciate ogni speranza といふ奴を知つてゐるのですからね。例の奉公人じみた希望がしやがんでゐるのですね。いかさま御最《ごもつとも》千万でございます。でも事に依りましたら、御都合でといふやうなわけですね。憐愍《れんみん》といふ詞は、知れ切つてゐるから口外しないのですが。」
「そこでどうだといふのだ」と、学士は悲しげに云つて、寒くなつたとでもいふ様子で、手をこすつた。
「そこでわたくしは自然といふ奴を、死よりももつとひどく憎むやうになつたのですね。夜昼なしにかう考へてゐたのです。いつか敵《かたき》の討てないことはあるまい。討てるとも。糞。先生。聞いて下さい。その癖わたくしは地球以外の自然に対してはまだ頗る冷淡でゐるのです。そんなものは構ひません。例之《たと》へば、星がなんです。なんでもありやしません。星は星で存在してゐる。わたくしはわたくしで存在してゐる。距離が遠過ぎるですな。それとは違つて
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