、地球の上の自然といふ奴は、理想が食ひたさに、こちとらを胡桃《くるみ》のやうに噛み砕きやあがるのです。理想込めにこちとらを食《くら》つてしまやあがるのです。そこでわたくしはいつも思ふのです。なぜそんなことが出来るだらう。何奴にしろ、勝手な風来ものが来てわたくしを責めさいなむ。そんな権利をどこから持て来るのです。わたくしばかりではない。幾百万の人間を責めさいなむ。最後になるまで責めさいなむ。なぜわたくしは最初の接吻の甘さを嘗めて打ち倒されてしまふのです。たつた一度ちよつぴりと接吻したばかりなのに、ひどいぢやあありませんか。その癖最初の接吻の甘さといふものは永遠です。永遠に新しく美しいのです。その外のものもその通りです。ひどいぢやあありませんか。むちやくちやだ。下等極まる。乱暴の絶頂だ。」
学士は驚いて患者の顔を見てゐる。そして丸で無意味に、「湊合《そうがふ》は繰り返すかも知れない」とつぶやいた。
「わたくしなんざあ湊合なんといふものは屁とも思ひません。口笛を吹いて遣ります」と、患者は憤然としてどなつた。この叫声が余り大きかつたので、二人共暫く黙つてゐた。
患者は何か物思ひに沈んでゐるといふやうな調子で、小声で言ひ出した。「先生、どうでせう。今誰かがあなたに向つて、この我々の地球が死んでしまふといふことを証明してお聞かせ申したらどうでせう。あいつに食つ附いてゐるうざうもざうと一しよに、遠い未来の事ではない、たつた三百年先きで死んでしまふのですね。死に切つてしまふのですね。外道《げだう》。勿論我々はそれまでゐて見るわけには行かない。併し兎に角それが気の毒でせうか。」
学士はまだ患者がなんと思つて饒舌《しやべ》つてゐるか分からないでゐるうちに患者は語り続けた。
「それは奴隷根性が骨身に沁みてゐて、馬鹿な家来が自分の利害と、自分を打《ぶ》つてくれる主人の利害とを別にして考へて見ることが出来ず、又自分といふものを感ずることが出来ないやうな地球上の住人は、気の毒にも思ふでせう。さう思ふのが尤もでもあるでせう。併し、先生、わたくしは嬉しいですな。」この詞を言ふ時の患者の態度は、喜びの余りによろけさうになつてゐるといふ風である。「むちやくちやに嬉しいですな。へん。くたばりやあがれ。さうなれば手前ももう永遠に己の苦痛を馬鹿にしてゐることは出来まい。忌々しい理想を慰みものにしてゐる
前へ
次へ
全14ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング