つた。
「さうかい」と学士は云つて、何か跡を言ひさうにした。
「悪い事なんぞをする筈がないのですからね」と、患者は相手の詞を遮るやうに云ひ足した。
「考へて御覧なさい。なぜわたくしが人に悪い事なんぞをしますでせう。手も当てる筈がないのです。食人人種ではあるまいし。ヨハン・レエマン先生ではあるまいし。当り前の人間でさあ。先生にだつて分かるでせう。わたくし位に教育を受けてゐると、殺人とか、盗賊とかいふやうなことは思つたばかりで胸が悪くなりまさあ。」
「併しお前は病気だからな。」
 患者は体をあちこちもぢもぢさせて、劇《はげ》しく首を掉《ふ》つた。「やれやれ。わたくしが病気ですつて。わたくしはあなたに対して、わたくしが健康だといふことを証明しようとは致しますまい。なんと云つた所で、御信用はなさるまいから。併しどこが病気だと仰やるのです。いやはや。」
「どうもお前は健康だとは云はれないて」と、学士は用心して、しかもきつぱりと云つた。
「なぜ健康でないのです」と、患者は詞短かに云つた。「どこも痛くも苦しくもありませんし、気分は人並より好いのですし、殊にこの頃になつてからさうなのですからね。ははは。先生。丁度わたくしが一件を発明すると、みんなでわたくしを掴まへて病院に押し込んだのですよ。途方もない事でさあ。」
「それは面白い」と、学士は云つて、眉を額の高い所へ吊るし上げた。その尖つた顔がどこやら注意して何事をか知らうとしてゐる犬の顔のやうであつた。
「可笑《をか》しいぢやありませんか。」患者は忽然《こつぜん》笑つて、立ち上がつて、窓の所へ行つて、暫くの間日の照つてゐる外を見てゐた。学士はその背中を眺めてゐた。きたない黄いろをしてゐる病衣が日に照らされて、黄金色《わうごんしよく》の縁《ふち》を取つたやうに見えた。
「今すぐにお話し申しますよ」と患者は云つて、踵《くびす》を旋らして、室内をあちこち歩き出した。顔は極真面目で、殆ど悲しげである。さうなつたので顔の様子が余程見好くなつた。
「お前の顔には笑ふのは似合はないな」と、学士はなぜだか云つた。
「えゝえゝ」と、元気好く患者は云つた。「それはわたくしも承知してゐますよ。これまでにもわたくしにさう云つて注意してくれた人がございました。わたくしだつて笑つてゐたくはないのです。」かう云ひながら、患者は又笑つた。その笑声はひからびて、木の
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