スピイスブルク市の幸福な状態を話した。こんな結構な、泰平無事な都会に非常な災難が出来ようとは、実に誰も予期してゐなかつたのである。
余程前から市民中の有識者達が、諺のやうにかう云ふ事を言つてゐた。「岡の外からはろくな物は来《く》まい」と云ふのである。不思議にもこの詞が讖《しん》をなした。
丁度|一昨日《をとつひ》の事であつた。正午前五分間と云ふ時、東の丘陵の巓に妙な物が見えた。いつにない出来事なので、どの家の腕附の椅子に掛けてゐる爺いさんも、胸に動悸をさせながら、片々の目でその妙な物を見てゐた。片々の目は矢張塔の大時計を見てゐるのである。
正午前三分間だと云ふ時、丘陵の上に見えてゐた妙な物が、小男で、多分|他所者《たしよもの》だらうと云ふことが分かつた。その男は急いで丘陵を降りて来る。姿が次第に好く見える。古来スピイスブルク市で見たことのない、馬鹿げた風体《ふうてい》の男である。顔の色は煙草のやうに黄いろい。鉤のやうな形の大きい鼻をしてゐる。目玉は黄いろい大豌豆のやうである。広い口の中で綺麗な歯が光つてゐる。それを人に見せたがるものと見えて、いつも口を耳まで開けて笑つてゐる。その外は八字髭と頬髯とが見えるだけである。帽子を被らない頭の髪は丁寧にちぢらせてある。体にぴつたり着いた黒服には、長い燕《つばくら》の尾のやうな裾が付いてゐる。一方の隠しから大きな、白いハンケチが出掛かつてゐる。ずぼんは黒のカシミアである。沓足袋も黒い。足に穿いてゐるのは長靴と舞踏沓との間《あひ》の子のやうな物で、それに黒い絹糸の大きな流蘇《ふさ》が下がつてゐる。片々にはシヤポオ・クラツクを腋挾《わきばさ》んで、片々には自分の丈の五倍もあるヰオリンを抱いてゐる。そして右の手に金の嗅煙草入を持つて、妙な身振をして丘陵を駆け降りながら、得意げな様子で嗅煙草を鼻に詰め込んでゐる。いやはや。スピイスブルク市の良民の為めには、実に途方もない見物である。
好く見れば、此男は笑つてはゐるが、どうもその面附きが根性の悪い乱暴者らしく見える。それに市の方へ向いて駆けて来る足に穿いてゐる変な沓が、誰の目にも第一に怪しく見えるのである。それにあの黒服の隠しから出掛かつてゐる白いハンケチの背後《うしろ》には何が隠してあるか、見たいものだと思つた人も大ぶある。兎に角此男が怪しい曲者だと云ふことは、フアンダンゴやピルエツトの踊の足取をして、丘陵を降りて来るのに、一向|間拍子《まびやうし》と云ふものを構はないのを見たばかりでも察せられる。
そのうち正午前三十秒程になつた。市民等が目を大きく開いて見ようとする隙《ひま》もなく、外道奴《げだうめ》は市民等の間を通り抜けて、脚ではシヤツセエをしたり、バランセエをしたり、ピルエツトをしたり、パア・ド・ゼフイイルをしたりして、羽が生えて飛ぶやうに、議事堂の塔の上に駆け登つた。大時計の傍には番人が驚き呆れながら矢張|息張《いば》つて、ゆつくりと煙草を喫んでゐた。外道奴は番人の鼻を撮んで、右左にゆすぶつて、前へ引つ張つて、それから腋挾んでゐた大きなシヤポオ・クラツクを番人の頭に被せた。そしてそれをずつと下へ引くと、番人の目も口もすつぽり隠れてしまつた。それから大きなヰオリンを振り上げて番人を打《ぶ》つわ、打つわ。胴の空虚なヰオリンで、太つた番人をぽかぽか打つので、丁度議事堂の塔の上で鼓手が一箇聯隊位太鼓を叩き立ててゐるかと思ふやうである。
こんな怪しからん事をせられて、スピイスブルクの市民等が復讐をせずに見てゐる筈はないが、兎に角正午までにもう半秒時間しかないと云ふ重大な事件があるから、その外の事は考へられない。今に大時計が打たなくてはならない。それが打つ以上は、スピイスブルクの市民の為めには、てんでに懐中時計を出して時間を合せるより大切な事はない。驚いた事には、その職でもないのに、外道奴、丁度此時大時計をいぢくり始めた。併しもう大時計が打ち出すので、市民はその方に気を取られて外道奴が何をするやら、見てゐることが出来なかつた。
「一つ」と大時計が云つた。
「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響《こだま》のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。
「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。
「十一」と大時計が云つた。
「十一」と皆が合槌を打つた。
「十二」と大時計が云つた。
「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。
「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。
然るに大時計はまだこれでは罷《や》めない。「十三」と大時計は云つた。
「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。
「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
これから後に起つたスピイスブルク市の恐ろしい出来事を筆で書かうと思つても、それは不可能である。兎に角市を挙げて大騒乱の渦中に陥つたと云ふより外はない。
子供は異口同音に云つた。「おいらの時計はどうしたと云ふのだらう。おいらは一時間も前からお午が食べたくてならない。」
お神さん達は云つた。「まあ、わたしの鍋はどうしたと云ふのだらう。もう一時間も前から豚もキヤベツも煮えくり返つてゐる。」
爺いさん達は云つた。「己の煙管はどうしたと云ふのだらう。もう一時間も前に吸殻になつてゐなくちやならんのだ。」かう云つて爺いさん達は腹立たしげに煙管を詰め更へて、腕附の椅子に倚り掛かつて、忙がしげに煙を吹き出した。スピイスブルク市は忽ち煙草の煙に包まれて何も見えなくなつてしまつた。
その時市の菜園に作つてあるキヤベツの頭が、皆腹を立てたやうに真つ赤になつた。それから矢張外道奴の所作と見えて、家々の道具に為込んである時計や置時計が魔法で踊らせるやうに踊り出した。炉の上の棚にある時計も腹が立つて溜まらないと云ふ様子で、十三時を繰り返し繰り返し打ちながら、下振《さげふ》りをめちやめちやに振り廻した。それから猫や豚が、尻つぽに括り付けてある時計の十三時を打つのが不都合だと心得たものか皆駆け出して、きいきい、にやあにやあ啼きながら、そこら中を引つ掻いて、何もかも蹴飛ばして、人の顔に飛び付いたり、着物の裾にこんがらかつたりした。なんともかとも云はれない大騒乱である。
それに塔の上にゐるいたづら者奴は却つてわざと此騒乱を大きくしようとしてゐるらしい。折々煙草の煙の隙間から仰向いて見ると、いたづら者は番人を仰向けに寝させて、その上に乗つて、大時計の上に吊つてある吊鐘の綱を口に銜へて、頭を右左に振りながら鐘を鳴らしてゐる。あの時の事を思ひ出すと、己は今でも耳が鳴る。いたづら者奴、鐘が鳴るばかりでは足りないと見えて、膝の上に大きなヰオリンを置いて、間拍子に構はず、「ねえ、テレザさん、降りてお出で」と云ふ歌の譜を弾いてゐる。
己はこんな怪しからん事を黙つて見てゐるに忍びないので、早速スピイスブルク市を逃げ出した。そこで天下の麦酒樽漬のキヤベツの好な人達に檄を飛ばして援《すくひ》を求める。寄語す。天下の義士よ。決然起つて、隊を成してスピイスブルクに闖入して、市の秩序を恢復し、狂暴者を議事堂の塔の上より蹴落さうではありませんか。
底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日発行
初出:「趣味 六ノ四」
1912(大正元)年10月1日
入力:tatsuki
校正:もりみつじゅんじ
2001年11月20日公開
2006年4月8日修正
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