ような調子でつぶやく。
正道はなぜか知らず、この女に心が牽《ひ》かれて、立ち止まってのぞいた。女の乱れた髪は塵《ちり》に塗《まみ》れている。顔を見れば盲《めしい》である。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。それと同時に正道は瘧病《おこりやみ》のように身うちが震《ふる》って、目には涙が湧いて来た。女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。
[#ここから2字下げ]
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生《しょう》あるものなれば、
疾《と》う疾う逃げよ、逐《お》わずとも。
[#ここで字下げ終わり]
正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚《ほ》れた。そのうち臓腑《ぞうふ》が煮え返るようになって、獣《けもの》めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏《うつふ》した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。
女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤《うるお》いが出た。女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。
[#地から1字上げ]大正四年一月
底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1998年7月21日公開
2006年5月16日修正
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