養女で、実は妻の姪《めい》である。この后《きさき》は久しい間病気でいられたのに、厨子王の守本尊を借りて拝むと、すぐに拭《ぬぐ》うように本復《ほんぷく》せられた。
師実は厨子王に還俗させて、自分で冠《かんむり》を加えた。同時に正氏が謫所《たくしょ》へ、赦免状《しゃめんじょう》を持たせて、安否を問いに使いをやった。しかしこの使いが往ったとき、正氏はもう死んでいた。元服して正道と名のっている厨子王は、身のやつれるほど歎《なげ》いた。
その年の秋の除目《じもく》に正道は丹後の国守にせられた。これは遙授《ようじゅ》の官で、任国には自分で往かずに、掾《じよう》をおいて治めさせるのである。しかし国守は最初の政《まつりごと》として、丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠《たくみ》の業《わざ》も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。国守の恩人曇猛律師は僧都《そうず》にせられ、国守の姉をいたわった小萩は故郷へ還《かえ》された。安寿が亡きあとはねんごろに弔《とむら》われ、また入水した沼の畔《ほとり》には尼寺が立つことになった。
正道は任国のためにこれだけのことをしておいて、特に仮寧《けにょう》を申し請うて、微行して佐渡へ渡った。
佐渡の国府《こふ》は雑太《さわた》という所にある。正道はそこへ往って、役人の手で国中を調べてもらったが、母の行くえは容易に知れなかった。
ある日正道は思案にくれながら、一人旅館を出て市中を歩いた。そのうちいつか人家の立ち並んだ所を離れて、畑中の道にかかった。空はよく晴れて日があかあかと照っている。正道は心のうちに、「どうしてお母あさまの行くえが知れないのだろう、もし役人なんぞに任せて調べさせて、自分が捜し歩かぬのを神仏が憎んで逢わせて下さらないのではあるまいか」などと思いながら歩いている。ふと見れば、大ぶ大きい百姓家がある。家の南側のまばらな生垣《いけがき》のうちが、土をたたき固めた広場になっていて、その上に一面に蓆《むしろ》が敷いてある。蓆には刈り取った粟《あわ》の穂が干してある。その真ん中に、襤褸《ぼろ》を着た女がすわって、手に長い竿《さお》を持って、雀の来て啄《ついば》むのを逐《お》っている。女は何やら歌のような調子でつぶやく。
正道はなぜか知らず、この女に心が牽《ひ》かれて、立ち止まってのぞいた。女の乱れた髪は塵《ちり》に塗《まみ》れている。顔を見れば盲《めしい》である。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいている詞が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。それと同時に正道は瘧病《おこりやみ》のように身うちが震《ふる》って、目には涙が湧いて来た。女はこういう詞を繰り返してつぶやいていたのである。
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安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生《しょう》あるものなれば、
疾《と》う疾う逃げよ、逐《お》わずとも。
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正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚《ほ》れた。そのうち臓腑《ぞうふ》が煮え返るようになって、獣《けもの》めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏《うつふ》した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。
女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤《うるお》いが出た。女は目があいた。
「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。
[#地から1字上げ]大正四年一月
底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1998年7月21日公開
2006年5月16日修正
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