山椒大夫
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)越後《えちご》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|隅《すみ》へはいって

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「米+巨」、第3水準1−89−83]
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 越後《えちご》の春日《かすが》を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰《こ》えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞《はらから》二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣《ものまい》りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠《かさ》やら杖《つえ》やらかいがいしい出立《いでた》ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断《た》えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和《あきびより》によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝《くるぶし》を埋めて人を悩ますことはない。
 藁葺《わらぶ》きの家が何軒も立ち並んだ一構えが柞《ははそ》の林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかかった。
「まああの美しい紅葉《もみじ》をごらん」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。
 子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
 姉娘が突然弟を顧みて言った。「早くお父うさまのいらっしゃるところへ往《ゆ》きたいわね」
「姉えさん。まだなかなか往《い》かれはしないよ」弟は賢《さか》しげに答えた。
 母が諭《さと》すように言った。「そうですとも。今まで越して来たような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出しておとなしく歩かなくては」
「でも早く往きたいのですもの」と、姉娘は言った。
 一群れはしばらく黙って歩いた。
 向うから空桶《からおけ》を担《かつ》いで来る女がある。塩浜から帰る潮汲《しおく》み女である。
 それに女中が声をかけた。「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」
 潮汲み女は足を駐《と》めて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
 女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気《じんき》が悪いのでしょう」
 二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
 潮汲み女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地ですが、国守《くにのかみ》の掟《おきて》だからしかたがありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札《たかふだ》が立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはお咎《とが》めがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」
「それは困りますね。子供衆もおいでなさるし、もうそう遠くまでは行かれません。どうにかしようはありますまいか」
「そうですね。わたしの通う塩浜のあるあたりまで、あなた方がおいでなさると、夜になってしまいましょう。どうもそこらでいい所を見つけて、野宿をなさるよりほか、しかたがありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休みなさるがいいでしょう。岸の石垣にぴったり寄せて、河原に大きい材木がたくさん立ててあります。荒川の上《かみ》から流して来た材木です。昼間はその下で子供が遊んでいますが、奥の方には日もささず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜の持ち主のところにいます。ついそこの柞《ははそ》の森の中です。夜になったら、藁《わら》や薦《こも》を持って往ってあげましょう」
 子供らの母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、このとき潮汲み女のそばに進み寄って言った。「よい方に出逢《であ》いましたのは、わたしどもの為合《しあわ》せでございます。そこへ往って
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