好く笑つて、その儘部屋の奥の方へ行つてしまつた。戸口の方へ行つたのらしい。
「はてな。己を呼び入れようとするのかな」と思ひながら、ソロドフニコフは立ち留まつた。その儘行つてしまふが好いか、それとも待つてゐるが好いかと、判断に困つた。
 パン屋の店の処の入口の戸が開いた。そして真黒い長方形の戸の枠からゴロロボフの声がした。
「先生。あなたですか。」
 ソロドフニコフはまだどうしようとも決心が附かずにゐた。そこでためらひながら戸口に歩み寄つた。闇の中に立つてゐるゴロロボフは学士と握手をして、そして自分は腋へ寄つて、学士を通さうとした。
「いやはや、飛んだ事になつた。とう/\なんの用事もないに、人の内へ案内せられることになつた」と、学士は腹の中で思つて、そこらに置いてある空き箱やなんぞにぶつ附かりながら、這入つて行く。
 廊下は焼き立てのパンと、捏《こ》ねたパン粉との匂がしてゐて、空気は暖で、むつとしてゐる。
 見習士官は先きに立つて行つて、燈火の明るくしてある部屋の戸を開けた。ソロドフニコフは随分妙な目に逢ふものだと思つて、微笑《ほゝゑ》みながら閾を跨いだ。
 見習士官は不恰好な古い道具を少しばかり据ゑ附けた小さい部屋に住まつてゐる。
 ソロドフニコフは外套を脱いで、新聞紙を張つた壁に順序好く打つてある釘の一つに掛けて、ゲエトルをはづして、帽子を脱いで、杖を部屋の隅に立てて置いた。
「どうぞお掛けなさい」と云ひながら、ゴロロボフは学士に椅子を勧めた。ソロドフニコフはそれに腰を掛けて周囲《まはり》を見廻した。部屋に附けてあるのはひどく悪いランプである。それで室内が割合に暗くて息が籠つたやうになつてゐる。学士の目に這入つたのは、卓が一つ、丁寧に片附けてある寝台《ねだい》が一つ、壁の前に不規則に置いてある椅子が六つの外に、入口と向き合つてゐる隅に、大小種々の聖者の画像の、銅の枠に嵌めたのが、古びて薄黒くなつてゐて、その前に緑色の火屋《ほや》の小さいランプに明りが附けて供へてあつて、それから矢張その前に色々に染めたイイスタア祭の卵が供へてあるのであつた。
「大したお難有連《ありがたれん》だと見える」と、ソロドフニコフは腹の中で嘲つた。どうもこんな坊主臭い事をして、常燈明《じやうとうみやう》を上げたり、涙脆さうにイイスタアの卵を飾つたりするといふのは、全体見習士官といふものの官職や業務と、丸で不吊合だと感ぜられたのである。
 卓の上には清潔な巾《きれ》が掛けて、その上にサモワルといふ茶道具が火に掛けずに置いてある。その外、砂糖を挾む小さい鉗子《かんし》が一つ、茶を飲む時に使ふ匙が二三本、果物の砂糖漬を入れた硝子《ガラス》壺が一つ置いてある。寝台の上には明るい色の巾が掛けてある。枕は白い巾に縫ひ入れのあるのである。何もかもひどく清潔で、きちんとしてある。その為めに却つて室内が寒さうに、不景気に見えてゐる。
「お茶を上げませうか」と、見習士官が云つた。
 ソロドフニコフは茶が飲みたくもなんともないから、も少しで断るところであつた。併し茶でも出させなくては、為草《しぐさ》も言草もあるまいと思ひ返して、「どうぞ」と云つた。
 ゴロロボフは茶碗と茶托とを丁寧に洗つて拭いて、茶を注いだ。
「甚だ薄い茶で、お気の毒ですが」と云つて、学士に茶を出して、砂糖漬の果物の壺を押し遣つた。
「なに、構ふもんですか」と、ソロドフニコフは口で返事をしながら、腹の中では、「そんな事なら、なんだつて己をここへ連れ込んだのだ」と思つた。
 見習士官は両足を椅子の脚の背後《うしろ》にからんで腰を掛けてゐて、器械的に匙で茶を掻き廻してゐる。ソロドフニコフも同じく茶を掻き廻してゐる。
 二人共黙つてゐる。
 此時になつて、ソロドフニコフは自分が主人に誤解せられたのだと云ふことに気が附いた。見習士官は杖で窓を叩かれて、これは用事があつて来たのだなと思つたに違ひない。そこで変な工合になつたらしい。かう思つて、ソロドフニコフは不愉快を感じて来た。今二人は随分馬鹿気た事をしてゐるのである。お負にそれがソロドフニコフ自身の罪なのである。体が達者で、身勝手な暮しをしてゐる人の常として、こんな事を長く我慢してゐることが出来なくなつた。
「ひどい天気ですな」と会話の口を切つたが、学士は我ながら詰まらない事を言つてゐると思つて、覚えず顔を赤くした。
「さやうです。天気は実に悪いですな」と、見習士官は早速返事をしてしまつて、跡は黙つてゐる。ソロドフニコフは腹の中で、「へんな奴だ、廻り遠い物の言ひやうをしやがる」と思つた。
 併しこの有様を工合が悪いやうに思ふ感じは、学士の方では間もなく消え失せた。それは職業が医師なので、種々な変つた人、中にも初対面の人と応接する習慣があるからである。それに官吏といふ
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