事がつてゐた人間の体の分壊した名残りだ。土の上で、あそこに火を焚いてゐる。あれが消えれば灰になつてしまふ。併しまた火を付けようと思へば付けられる。併しその火はもう元の火ではない。丁度あんなわけで、もう己のあとには己といふものはないのだ。かう思ふと脚や背中がむづむづして来る。このソロドフニコフといふものは亡くなるのだ。ドクトル・ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフといふものは亡くなるのだ。」
この詞を二三遍繰り返して、ソロドフニコフは恐怖と絶望とを感じた。心臓は不規則に急促《きふそく》に打つてゐる。何物かが胸の中を塞ぐやうに感ぜられる。額には汗が出て来る。
「己といふものは亡くなつてしまふ。無論さうだ。何もかも元のままだ。草木《さうもく》も、人間も、あらゆる感情も元のままだ。愛だとかなんだとかいふ美しい感情も元のままだ。それに己だけは亡くなつてしまふ。何があつても、見ることが出来ない。あとに何もかも有るか無いかといふことも知ることが出来ない。なんにも知ることが出来ないばかりではない。己そのものが無いのだ。綺麗さつぱり無いのだ。いや。綺麗さつぱりどころではない。実に恐るべき、残酷な、無意味なわけだ。なんの為めに己は生きてゐて、苦労をして、あれは善いの、あれは悪いのといつて、他人よりは自分の方が賢いやうに思つてゐたのだ。己といふものはもう無いではないか。」
ソロドフニコフは涙ぐんだやうな心持がした。そしてそれを恥かしく思つた。それから涙が出たら、今まで自分を抑圧してゐた、溜まらない感じがなくなるだらうと思つて、喜んだ。併し目には涙が出ないで、ただ闇を凝視してゐるのである。ソロドフニコフは重くろしい溜息を衝いて、苦しさと気味悪さとに体が顫えてゐた。
「己を蛆《うじ》が食ふ。長い間食ふ。それをこらへてぢつとしてゐなくてはならない。己を食つて、その白い、ぬるぬるした奴がうようよと這ひ廻るだらう。いつそ火葬にして貰つた方が好いかしら。いや。それも気味が悪い。ああ。なんの為めに己は生きてゐたのだらう。」
体ぢゆうがぶるぶる顫えるのを感じた。窓の外で風の音がしてゐる。室内は何一つ動くものもなく、ひつそりしてゐる。
「己ももう間もなく死ぬるだらう。事に依つたら明日死ぬるかも知れない。今すぐに死ぬるかも知れない。わけもなく死ぬるだらう。頭が少しばかり痛んで、それが段々ひどくなつて死ぬるだらう。死ぬるといふことがわけもないものだといふ事は、己は知つてゐる。どうなつて死ぬるといふことは、己は知つてゐる。併しどうしてそれを防ぎやうもない。死ぬるのだな。事に依つたら明日かも知れない。今かも知れない。さつきあの窓の外に立つてゐるとき風を引いてゐる。これから死ぬるのかも知れない。どうも体は健康なやうには思はれるが、体のどこかではもう分壊作用が始まつてゐるらしい。」
ソロドフニコフは自分で脈を取つて見た。併し間もなくそれを止めた。そして絶望したやうに、暗くてなんにも見えない天井を凝視してゐた。自分の頭の上にも、体の四方にも、冷たい、濃い鼠色の暗黒がある。その闇黒の為めに自分の思想が一層恐ろしく、絶望的に感ぜられる。
「兎に角死ぬるのを防ぐ事は出来ない。一瞬間でも待つて貰ふことは出来ない。早いか晩《おそ》いか死ななくてはならない。不老不死の己ではない。その癖己をはじめ、誰でも医学を大した学問のやうに思つてゐる。今日の命を繋ぎ、明日の命を繋いだところで、どうせ皆死ぬるのだ。丈夫な奴も死ぬる。病人も死ぬる。実に恐ろしい事だ。己は死を恐れはしない。併しなんだつて死といふものに限つて遣つて来なくてはならないのだらう。なんの意味があるのだらう。誰が死といふものを要求するのだらう。いや。実際は己にも気になる。己にも気になる。」
ソロドフニコフは忽然思量の糸を切つた。そして復活といふことと、死後の性命といふこととを考へて見た。その時或る軟い、軽い、優しいものが責めさいなまれてゐる脳髄の上へかぶさつて来るやうな心持がして、気が落ち付いて快くなつた。
併し間もなくまた憎悪、憤怒《ふんど》、絶望がむらむらと涌《わ》き上がつて来る。
「えゝ。馬鹿な事だ。誰がそんな事を信ずるものか。己も信じはしない。信ぜられない。そんな事になんの意味がある。誰が体のない、形のない、感情のない、個性のない霊といふものなんぞが、※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《かうき》の中を飛び廻つてゐるのを、なんの用に立てるものか。それはどつちにしても恐怖はやはり存在する。なぜといふに、死といふ事実の外は、我々は知ることが出来ないのだから。あの見習士官の云つた通りだ。永遠に恐怖を抱いてゐるよりは、寧ろ自分で。」
「寧ろ自分で」とソロドフニコフは繰り返して、夢の中で物を見るやうに、自
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