公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細《しさい》を話した。
とても死ぬるものなら、一思《ひとおもい》に死んでしまいたいと云う情に、九人が皆支配せられている。留められてもどかしいと感ずると共に、その留めた人に打《ぶ》っ附かって何か言いたい。理由を問うて見たい。一同小南の控所に往って、橋詰が口を開いた。
「我々が朝命によって切腹いたすのを、何故にお差留になりましたか。それを承りに出ました」
小南は答えた。
「その疑は一応|尤《もっとも》であるが切腹にはフランス人が立ち会う筈《はず》である。それが退席したから、中止せんではならぬ。只今薩摩、長門、因幡、備前、肥後、安芸七藩の家老方がフランス軍艦に出向かわれた。姑《しばら》く元の席に帰って吉左右《きっそう》を待たれい」
九人は是非なく本堂に引き取った。細川、浅野両藩の士《さむらい》が夕食の膳を出して、食事をする気にはなられぬと云う人々に、強《し》いて箸《はし》を取らせ、次いで寝具を出して枕に就かせた。子の刻頃になって、両藩の士が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳《は》ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かわるがわる云うのを聞けば、概《おおむ》ねこうである。我々はフランス軍艦に往って退席の理由を質《ただ》した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分その惨澹《さんたん》たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云った。明朝は伊達少将の手を経て朝旨《ちょうし》を伺うことになるだろう。いずれも軽挙|妄動《もうどう》することなく、何分の御沙汰を待たれいと云うのである。九人は謹んで承服した。
中一日置いて二十五日に、両藩の士が来て、九人が大阪表へ引上げることになったこと、それから六番隊の橋詰、岡崎、川谷は安芸藩へ、八番隊の竹内、横田、土居、垣内、金田、武内は肥後藩へ預けられたことを伝えた。九挺の駕籠は寺の広庭に舁《か》き据えられた。一同駕籠に乗ろうとする時、橋詰が自ら舌を咬《か》み切って、口角から血を流して倒れた。同僚の潔く死んだ後に、自分の番になって故障の起ったのを遺憾だと思ったのである。幸に舌の創は生命を危くする程のものではなかったが、浅野家のものは再び変事の起らぬうちに、早く大阪まで引き上げようと思って、橋詰以下三人の乗った駕籠を、早追の如くに急がせた。細川家のものが声を掛けて、歩度を緩《ゆる》めさせようとしたが、浅野家のものは耳にも掛けない。とうとう細川家のものも駆足になった。
大阪に着くと、九挺の駕籠が一旦長堀の土佐藩邸の前に停められた。小南が門前に出て、橋詰に説諭した。そこから両藩のものが引き分れて、各《おのおの》預けられた人達を連れて帰った。橋詰には医者が附けられ、又土佐藩から看護人が差し添えられた。
九人のものは細川、浅野両家で非常に優待せられた。中にも細川家では、元禄年中に赤穂浪人を預り、万延元年に井伊掃部頭《いいかもんのかみ》を刺した水戸浪人を預り、今度で三度目の名誉ある御用を勤めるのだと云って、鄭重《ていちょう》の上にも鄭重にした。新調した縞《しま》の袷《あわせ》を寝衣《ねまき》として渡す。夜具は三枚布団で、足軽が敷畳をする。隔日に据風呂《すえふろ》が立つ。手拭と白紙とを渡す。三度の食事に必ず焼物付の料理が出て、隊長が毒見をする。午後に重詰の菓子で茶を出す。果物が折々出る。便用には徒士《かち》二三人が縁側に出張る。手水《ちょうず》の柄杓《ひしゃく》は徒士が取る。夜は不寝番《ねずばん》が附く。挨拶に来るものは縁板に頭を附ける。書物を貸して読ませる。病気の時は医者を出して、目前で調合し、目前で煎《せん》じさせる。凡そこう云う扱振である。
三月二日に、死刑を免じて国元へ指返《さしかえ》すと云う達しがあった。三日に土佐藩の隊長が兵卒を連れて、細川、浅野両藩にいる九人のものを受取りに廻った。両藩共|七菜《しちさい》二《に》の膳附の饗応《きょうおう》をして別を惜んだ。十四日に、九人のものは下横目一人宰領二人を附けられて、木津川口から舟に乗り込み、十五日に、千本松を出帆し、十六日の夜なかに浦戸《うらど》の港に着いた。十七日に、南会所をさして行くに、松が鼻から西、帯屋町までの道筋は、堺事件の人達を見に出た群集で一ぱいになっている。南会所で、下横目が九人のものを支配方に引き渡し、支配方は受け取って各自の親族に預けた。九人のものはこの時一旦|遺書《ゆいしょ》遺髪《ゆいはつ》を送って遣《や》った父母妻子に、久し振の面会をした。
五月二十日に、南会所から九人のものに呼出状が来た。本人は巳《み》の刻、実父
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