の椅子の二つある、その一つに、がつかりした様子で腰を卸した。その椅子はまだ誰も腰を掛けて死んだことのない椅子であつた。
 これは履歴のない椅子に履歴を附けて遣らうと云ふ公平な心からである。
 一同眸を凝らしてスタニスラウスを見た。
「をぢさん」と一声《ひとこゑ》を発することを敢てしたのは、女主人イレエネ・ホルンであつた。
 スタニスラウスは徐《しづ》かに手を振つた。人に邪魔をせられずに落ち着いてゐたいと思つたからである。けふかあすかは知らぬが、自分はもうこの椅子から立ち上がらずにしまふのが分かつてゐる。併し最後の詞は、なんと云ふ詞にしようか、それはまだ極めてゐない。



初出:祭日 明治四五年一月一日「心の花」一六ノ一
原題:Das Familienfest.
原作者:Rainer Maria Rilke, 1875−1926.
翻訳原本:R. M. Rilke: Am Leben hin.(Novellen und Skizzen.)Stuttgart, Verlag von Adolf Bonz. 1898.

底本:「鴎外選集 第十四巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2001年10月23日公開
2001年10月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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