でゐる。
そこでアウグステをばさんが返事をしなくてはならない順序になつた。をばさんは余り躊躇せずに記憶の一部を喚び醒さうとするやうに、平手で白髪の束髪の上を撫でて、大胆にはつきりと言つて退けた。「あちらの椅子でございました。」をばさんはいつもこんな風に、一族に関した出来事を大切に、精《くは》しく記憶してゐて、それで自分の親族的関係の朧気なのを填め合せようとしてゐるのである。
ところが、それに就いて是非の論が紛起した。一同起立して、二つの椅子を取り巻いて見てゐる。
最後にスタニスラウスが起つて来て、人を押し分けて椅子の背後《うしろ》に近寄つて、椅背《きはい》の後面を平手で撫でて見た。さて熱心に解決を待つてゐる一同に向つて口を開いた。「兄が据わつてゐて亡くなつた分の椅子には、螺釘《ねぢくぎ》が一本抜けてゐた。こちらの方に、その釘が無い。こちらの方がその椅子だ。」
一同暫くその場に立ち留まつてゐた。その椅子が何か一言いふかとでも思つてゐるらしい様子である。併し椅子は冷淡に黙つてゐるので、人々はその席に帰つた。
フリイデリイケは咳をしながら、「お祖母《ば》あ様のお亡くなりになつたのは、あの黄いろい長椅子の上でございましたね」と云つた。これを始として、一族のものは互にあの椅子、この椅子と指ざしをして、どれでは誰、どれでは誰と、一族の男女《なんによ》が腰を掛けて死んだと云ふことを数へ合つた。今先祖の尊霊になつてゐられるどなたかが、腰を掛けて死なれたことのある椅子の数が多くて、誰も腰を掛けてゐて亡くなつたことのない椅子が偶《たま》にあると、ひどくその椅子丈が幅の利かないわけである。そこでその恥辱を最も深く感じたのは、アントン・フオン・ヰツクの臨終に逢つたといふ椅子の隣にある、金巾の覆ひのしてある今一つの椅子である。
食事の休憩時間が少し長引き過ぎた。そこで女主人《をんなあるじ》は指尖でベルを押した。
一同はまだ誰がどの椅子の上で死んだとか、誰は死ぬる前になんと云つたとか数へ立ててゐる。フリイデリイケはぼんやりした笑顔をしていつもこんな場合に繰り返す話をしてゐる。それはお祖母あ様が亡くなられる時、フランス語でなんとか云はれたと云ふ話である。そこへベルの音を聞いて、ヨハン爺いさんが出て来た。爺いさんはもう何代前からか、この家の附属物になつてゐるのである。さつきから捧げ持
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