受け取つて、縁側に出した。
取締役はそれを披いて、いちの願書と引き比べた。いちの願書は町年寄の手から、取調の始まる前に、出させてあつたのである。
長太郎の願書には、自分も※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、256−下−2]や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。
取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。
「お前は※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、256−下−8]と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。
まつは「はい」と云つて頷いた。
次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。
長太郎はすぐに「はい」と云つた。
「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」
「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。
「とく」と取調役が呼んだ。とくは※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、256−下−16]や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて役人の顏を仰ぎ見た。
「お前も死んでも好いのか。」
とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。
「初五郎」と取調役が呼んだ。
やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活溌にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。
此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい。」
「お前の申立には※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。
いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。
佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。
次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。
白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先《おひさき》の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆《けうさ》せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒《ほこさき》は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。
――――――――――――――――
城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑《つ》いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中《うかゞひちゆう》日延《ひのべ》」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會《だいじやうゑ》御執行《ごしつかう》相成候《あひなりさふらう》てより日限も不相立儀《あひたたざるぎ》に付、太郎兵衞事、死罪《しざい》御赦免《ごしやめん》被仰出《おほせいだされ》、大阪北、南組、天滿の三口|御構《おかまひ》の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げる
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