大阪で舟に乗り込んだのが六月十一日である。朝鮮|征伐《せいばつ》の時の俘虜《ふりょ》の男女千三百四十余人も、江戸からの沙汰《さた》で、いっしょに舟に乗せて還《かえ》された。

 浜松の城ができて、当時|三河守《みかわのかみ》と名のった家康はそれにはいって、嫡子信康《ちゃくしのぶやす》を自分のこれまでいた岡崎《おかざき》の城に住まわせた。そこで信康は岡崎|二郎三郎《じろうさぶろう》と名のることになった。この岡崎|殿《どの》が十八|歳《さい》ばかりの時、主人より年の二つほど若い小姓《こしょう》に佐橋甚五郎というものがあった。口に出して言いつけられぬうちに、何の用事でも果たすような、敏捷《びんしょう》な若者で、武芸は同じ年頃《としごろ》の同輩《どうはい》に、傍《そば》へ寄りつく者もないほどであった。それに遊芸が巧者で、ことに笛《ふえ》を上手《じょうず》に吹《ふ》いた。
 ある時信康は物詣《ものもう》でに往った帰りに、城下のはずれを通った。ちょうど春の初めで、水のぬるみ初《そ》めた頃《ころ》である。とある広い沼《ぬま》のはるか向うに、鷺《さぎ》が一羽おりていた。銀色に光る水が一筋うねっている側の黒ずんだ土の上に、鷺は綿を一つまみ投げたように見えている。ふと小姓の一人が、あれが撃《う》てるだろうかと言い出したが、衆議は所詮《しょせん》打てぬということにきまった。甚五郎は最初|黙《だま》って聞いていたが、皆《みな》が撃てぬと言い切ったあとで、独語《ひとりごと》のように「なに撃てぬにも限らぬ」とつぶやいた。それを蜂谷《はちや》という小姓《こしょう》が聞き咎《とが》めて、「おぬし一人がそう思うなら、撃ってみるがよい」と言った。「随分《ずいぶん》撃ってみてもよいが、何か賭《か》けるか」と甚五郎が言うと、蜂谷が「今ここに持っている物をなんでも賭きょう」と言った。「よし、そんなら撃《う》ってみる」と言って、甚五郎は信康の前に出て許しを請《こ》うた。信康は興ある事と思って、足軽《あしがる》に持たせていた鉄砲《てっぽう》を取り寄せて甚五郎に渡《わた》した。
「あたるもあたらぬも運じゃ。はずれたら笑うまいぞ」甚五郎はこう言っておいて、少しもためらわずに撃ち放した。上下こぞって息をつめて見ていた鷺《さぎ》は、羽を広げて飛び立ちそうに見えたが、そのまま黒ずんだ土の上に、綿一つまみほどの白い形をして
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