は長崎《ながさき》で造らせた白木の乗物に乗っていた。次は上官二十六人、中官八十四人、下官百五十四人、総人数二百六十九人であった。道中の駅々では鞍置馬《くらおきうま》百五十|疋《ぴき》、小荷駄馬《こにだうま》二百余疋、人足三百余人を続《つ》ぎ立てた。
駿府の城ではお目見えをする前に、まず献上物が広縁《ひろえん》に並《なら》べられた。人参《にんじん》六十|斤《きん》、白苧布《しろあさぬの》三十疋、蜜《みつ》百斤、蜜蝋《みつろう》百斤の四色《よいろ》である。江戸の将軍家への進物《しんもつ》十一色に比べるとはるかに略儀《りゃくぎ》になっている。もとより江戸と駿府とに分けて進上するという初めからのしくみではなかったので、急に抜差《ぬきさ》しをしてととのえたものであろう。江戸で出した国書の別幅《べっぷく》に十一色の目録があったが、本書とは墨色が相違《そうい》していたそうである。
この日に家康は翠色《みどりいろ》の装束《しょうぞく》をして、上壇《じょうだん》に畳《たたみ》を二|帖敷《じょうし》かせた上に、暈繝《うんげん》の錦の茵《しとね》を重ねて着座した。使は下段に進んで、二度半の拝をして、右から左へ三人|並《なら》んだ。上々官|金僉知《きんせんち》、朴僉知《ぼくせんち》、喬僉知《きょうせんち》の三人はいずれも広縁に並んで拝をした。ここでは別に書類を捧呈《ほうてい》することなどはない。茶も酒も出されない。しばらくして上《かみ》の使三人がまた二度半の拝をすると、上々官三人も縁でまた拝をした。上々官の拝がすんでから、上の使の三人は上々官をしたがえて退出した。
家康は六人の朝鮮人の後影《うしろかげ》を見送って、すぐに左右を顧《かえり》みて言った。
「あの縁にいた三人目の男を見知ったものはないか」
側には本多正純を始めとして、十余人の近臣がいた。案内して来た宗もまだ残っていた。しかし意味ありげな大御所のことばを聞いて、皆《みな》しばらくことばを出さずにいた。ややあって宗が危ぶみながら口を開いた。
「三人目は喬僉知《きょうせんち》と申しまするもので」
家康は冷やかに一目見たきりで、目を転じて一座を見渡《みわた》した。
「誰も覚えてはおらぬか。わしは六十六になるが、まだめったに目くらがしは食わぬ。あれは天正《てんしょう》十一年に浜松《はままつ》を逐電《ちくてん》した時二十三|歳《さい
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