き》の序幕であった。
武田の滅《ほろ》びた天正十年ほど、徳川家の運命の秤《はかり》が乱高下《らんこうげ》した年はあるまい。明智光秀《あけちみつひで》が不意に起って信長を討ち取る。羽柴秀吉《はしばひでよし》が毛利《もうり》家と和睦《わぼく》して弔合戦《とむらいがっせん》に取って返す。旅中の家康は茶屋四郎次郎《ちゃやしろじろう》の金と本多平八郎《ほんだへいはちろう》の鑓《やり》との力をかりて、わずかに免れて岡崎《おかざき》へ帰った。さて軍勢を催促《さいそく》して鳴海《なるみ》まで出ると、秀吉の使が来て、光秀の死を告げた。
家康が武田の旧臣を身方に招き寄せている最中に、小田原《おだわら》の北条新九郎氏直《ほうじょうしんうろううじなお》が甲斐《かい》の一揆《いっき》をかたらって攻めて来た。家康は古府《こふ》まで出張って、八千足らずの勢《せい》をもって北条《ほうじょう》の五万の兵と対陣《たいじん》した。この時佐橋甚五郎は若武者仲間《わかむしゃなかま》の水野藤十郎勝成《みずのとうじゅうろうかつなり》といっしょに若御子《わかみこ》で働いて手を負った。年の暮《く》れに軍功のあった侍《さむらい》に加増があって、甚五郎もその数に漏《も》れなんだが、藤十郎と甚五郎との二人には賞美のことばがなかった。
天正十一年になって、遠からず小田原《おだわら》へ二女|督姫君《とくひめぎみ》の輿入《こしい》れがあるために、浜松の館《やかた》の忙《いそ》がしい中で、大阪に遷《うつ》った羽柴家へ祝いの使が行くことになった。近習の甚五郎がお居間の次で聞いていると、石川与七郎数正《いしかわよしちろうかずまさ》が御前に出て、大阪への使を承っている。
「誰《たれ》か心の利《き》いた若い者を連れてまいれ」と家康が言う。
「さようなら佐橋でも」と石川が言う。
やや久しい間家康の声が聞こえない。甚五郎はどうした事かと思っていると、やっと家康の声がする。「あれは手放しては使いとうない。この頃《ごろ》身方についた甲州方《こうしゅうがた》の者に聞けば、甘利はあれをわが子のように可哀《かわい》がっておったげな。それにむごい奴《やつ》が寝首を掻《か》きおった」
甚五郎はこのことばを聞いて、ふんと鼻から息をもらして軽くうなずいた。そしてつと座を起って退出したが、かねて同居していた源太夫の邸《やしき》へも立ち寄らずに、それき
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