くしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の喉の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳《えぐ》るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、「待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから」と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、「醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む」と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は「早くしろ、早くしろ」と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる/″\廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵《かたき》の顏をでも睨む
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