、監物、十太夫に面會し、正虎が「此度は右衞門佐殿|公事《くじ》御勝利になられて、祝著に存ずる、去りながら萬一右衞門佐殿配所へ遣《つかは》される事になつたのであつたら、面々《めん/\》はなんとなされたのであつたか、しかと承つて置きたい」と云つた。道柏が暫く思案して進み出た。「若しさやうに御極《おきめ》なされたら、家老一同|遁世《とんせい》仕つたでござりませう」と云つた。正虎が「一同それに相違はないか」と云つた。一成等は「相違ございませぬ」と云つた。正虎は「實に殊勝な心得と存ずる、黒田家には好い家老を持つてをられる」と云つて座を立つた。これは福岡で籠城《らうじやう》の用意をしたのが物議の種にならぬやうに、家老等の言質を取つたのである。
 又二三日立つてから、安藤家へ十太夫が呼ばれた。直次は正虎を立ち會はせて、十太夫に剃髮《ていはつ》して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入つて領承した。
 五月八日に忠之は家光に謁見した。それで徳川家と黒田家との交際は元に復した。忠之は五年の後、寛永十五年の島原役に功を樹《た》て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が
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