他意のないことを示さうとする手段である。
 それに、異心のない忠之を異心があると訴へる人が利章だと云ふのに、忠之と其周圍の人達とはあきれた。いかにも忠之と利章とは極端まで緊張した間柄にはなつてゐる。今一歩進んだら忠之が利章に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つてゐる。併《しか》しそれは忠之の方で、彼奴《かやつ》どれだけの功臣にもせよ、其功を恃《たの》んで人もなげな振舞をするとは怪《け》しからんと思ひ、又利章の方で、殿がいくら聰明でも、二代續いて忠勤を勵んでゐる此|老爺《らうや》を蔑《ないがしろ》にすると云ふことがあるものかと思つての衝突である。忠之は憎みつゝも憚《はゞか》つてをり、其周圍の人達は憚りつゝも敬つてをつた利章が、どうして主君を無實の罪に陷いれようとするか、誰《たれ》にも判斷が附かぬのである。
 利章の密書は只《たゞ》忠之主從を驚きあきれさせたばかりではない。主從は同時に非常な懼《おそれ》を懷いた。なぜと云ふに、忠之が叛逆を企てたと云ふ本文の外に、利章の書面には追而書《おつてがき》が添へてあつた。其文句は、此の書面は相違なく御手元に屆くやうに、同時に二通を作つて、二人に持たせて、別々の道を經て送ると云ふのである。さうして見れば、黒田家で偶《たま/\》其一通をば押へたが、別に一通が無事に日田の竹中に屆いて、竹中から江戸の徳川家へ進達せられた事と察せられる。原來《ぐわんらい》利章程の家の功臣を殺したら、徳川家に不調法として咎《とが》められはすまいかと云ふことは、客氣《かくき》に驅られた忠之にも、微《かす》かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早《もはや》どうしても殺すことのならぬ男になつた。なぜと云ふに、逆意の有無を徳川氏に糺問《きうもん》せられる段になると、其|讒誣《ざんぶ》を敢《あへ》てした利章と對決するより外に、雪冤《せつゑん》の途はないのである。

     ――――――――――――

 利章の父栗山利安は、素播磨《もとはりま》の赤松氏の支流で、小字《こあざ》は善助、中ごろ四郎右衞門と稱し、後に備後と名告つた。天文二十年に播磨國|淡河《あがう》の城に生れ、永祿八年に十五歳で、同國姫山の城主黒田官兵衞|孝高《よしたか》に仕へ、永祿十一年に孝高の嫡子松壽が生れてから、若殿附にせられた。孝高は忠之の祖父、後に長政となつた松壽は忠之の父である。
 天正六年に荒木|攝津守《せつつのかみ》村重が攝津國|伊丹《いたみ》の有岡城に籠《こも》つて織田信長に背《そむ》いた。其時孝高は村重を諫《いさ》めに有岡城に往つて、村重に生け捕られた。利安は後|但馬《たじま》と云つた母里《もり》太兵衞友信、後|周防《すはう》と云つた井上九郎次郎之房等と、代わる/″\商人の姿に身を窶《やつ》して、孝高の押し籠められてゐる牢屋《らうや》の近邊を徘徊《はいくわい》して主を守護した。中にも利安は伊丹の町の銀屋をかたらつて、闇夜《あんや》に番兵を欺き、牢屋の背後の溜池《ためいけ》を泅《およ》いで牢屋に入り、孝高に面會した。翌年十一月瀧川|左近一益《さこんかずます》が有岡城を攻め落した時、利安は番人の逃げ去つた跡へ來て、錠を打ち破つて孝高を連れ出し、有馬に往つて湯治をさせて、やうやう足腰の立つやうにした。
 十年に信長が明智《あけち》日向守光秀《ひうがのかみみつひで》に殺された。孝高父子は此時から木下|秀吉《ひでよし》の下に附いて働き、十五年には孝高は豐前國《ぶぜんのくに》六郡の主にせられた。此時利安は領地を分けて貰つた。十七年に孝高は隠居して如水軒圓清と號し、黒田家は甲斐守《かひのかみ》長政の世となつた。利安の妻森尾氏の腹に嫡子大吉が生れたのは、それから二年目の天正十九年正月二十二日で、此大吉が後の大膳利章である。文祿元年の朝鮮陣には、長政が利安、友信を連れて渡り、孝高は跡から豐臣《とよとみ》秀吉の使として京城《けいじやう》に入つた。
 慶長四年に徳川家康が會津の上杉|影勝《かげかつ》を攻めに關東へ下つた時、長政は從軍したが、出發前に大阪|天滿《てんま》の邸で利安、友信、それから後に織部と云つた宮崎助太夫|重昌《しげまさ》の三人を呼んで細かい訓令を與へた。留守中に豐臣方の亂が起つたら、城内へ人質に取られぬ内に、母と妻とを中津川へ連れて逃げてくれ。まだ亂の起らぬのに、早まつて落ちさせてはならぬ。又其場合に誤つて二人の女子を奪はれてもならぬ。利安は友信と敵に當り、重昌は二人の女子の側に殘つてゐて、逃されぬと見極めたら、重昌は二人を殺して自殺してくれと云ふのであつた。暫《しばら》くすると、果して石田|治部少輔三成《ぢぶせういうみつなり》が佐和山城から出て來て、身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になつた孝高の妻|櫛橋氏《く
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