」は底本では「有|之間敷候《これあるまじくそろ》」]と云ふ文句のある一札である。利章はこれを梶原平十郎景尚に渡して云つた。此度《このたび》右衞門佐も自分も江戸に召されるからは、黒田家の浮沈に及ぶ事がないには限らぬ、さやうの場合には此書附を持つて江戸に出て、土井、井伊、酒井三閣老の中へ差し出されいと云つた。景尚の父官藏景次は播磨國高砂の城主駿河守景則と孝高の母の姉、明石氏との間に生れた子で、此景次が|尾エ《をのえ》氏を娶《めと》つて生ませたのが景尚である。尾エ氏は父を安右衞門と云つて、孝高の妹婿《いもうとむこ》である。安右衞門が戰歿し、未亡人黒田氏が尼になつてから、尾エ氏は孝高の夫人櫛橋氏の侍女になつてゐるうちに、孝高の手が附いて姙娠した。景次は君命によつてこれを娶《めと》つて景尚を生ませた。それだから景尚は實は孝高の庶子、長政の弟、忠之の伯父である。此書附は用立たずにしまつたが、後明和五年になつて黒田筑前守繼高の手に梶原家から戻つた。
忠之の江戸へ召された頃、利章は日田の竹中が役宅に身を寄せて、評定《ひやうぢやう》の始まる前に、竹中に連れられて江戸へ出た。
利章は盛岡へ立つ時、嫡男大吉利周を連れて立つた。家來で隨從したのは仙石角右衞門、財津大右衞門を始として、譜代の者共數十人であつた。福岡の黒田兵庫が邸に預けられた利章の妻黒田氏と二男吉次郎とには、後に五百石の扶持を賜はることになつた。
利章は盛岡に往つた時四十四歳で、まだ元氣盛んであつたので、妾内山氏を納《い》れた。此女の腹に、後に女子が出來た。
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忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上某が利章の人柄を慕つて面會したいと言ひ入れた。利章は「浮浪の身の上なれば、御ことわり可申歟《まうすべきか》とも存候へども、閑居徒然の折柄、御尋に預候はば、面談可申候」と返事をした。
井上が廣小路の邸を尋ねて、一間に通つた時、頭巾《づきん》を被つて爐に當つてゐた利章は顏を上げて、「御出御苦勞に存ずる」と、居直りもせずに挨拶した。歳は五十一歳であるが、血色は壯年のものに劣らない。
井上は直參《ぢきさん》の自分に對する挨拶《あいさつ》としては、少し勝手が違ふやうに感じて、暫く樣子を見てゐたが、主人は右の挨拶の外には別に無禮な擧動もせぬ。そこで二言三言物語をして歸つた。
邸を出てから井上は主人の態度を思ひ浮べて、どう云う心持ちであんな挨拶をしたかと考へた。家に歸つてからも、それを考へ續けた。併しどうしても分からぬので、今一應尋ねて先方の腹を探つてみようと決心した。
二度目に往くと、利章は又同じ態度で挨拶した。そこで井上が先づ舌戰の火蓋《ひぶた》を切つた。自分が再度まで尋ねるのは、貴殿を非凡の人だと聞き及んで、物事を相談し、場合によつては指南を受けようと思ふからである。然るに貴殿の樣子は格別凡人と異なるやうにも見えぬ。聊《いさゝか》案外に存ずると云つたのである。
利章は答へた。なる程自分は凡人かも知れぬ。併し人の賢愚正邪は實のある話をした上で分かるものである。
井上は云つた。然らばお尋する。自分は不肖ながら直參の身分である。それに貴殿が居直りもせずに挨拶せられるのは、どう云ふ御所存か承りたい。
利章は答へた。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にゐた時、左右良の城主で二萬五千石を領してゐた。大阪役の後に、悉《ことごと》く天下の端城《はじろ》を毀《こぼ》たれたので、左右良も其數には洩《も》れなかつた。併し采地は依然としてをつた。又黒田家の家老としては五十餘萬石の國政を與《あづか》り聞き、五萬餘の士卒を支配した。黒田家程の家の去就は天下の安危に關する。現に關が原の役にも、孝高、長政を身方に附けて、徳川家は一統の業を成された。然れば自分は、三四百俵の代官たる貴殿に、手を下げ膝を屈するいはれがない。
此答を聞いて井上は、げにもと悟つて、自分の不心得を謝し、利章と親密に交つて種々の事を質《たゞ》した。
井上が軍法諸流の得失を問うた時、利章は云つた。政治は文武を併せ用ゐるものである。文は寛、武は猛である。武は兇器を用ゐることをのみ言ふのではない。敢爲邁往《かんゐまいおう》の政は皆武である。軍法は武を用ゐる一端に過ぎぬ。流義の沙汰は無用で、七書以外に格別の物は無い。手元を丈夫にして置き、敵情を十分吟味して戰へば勝つ。軍法は常にある。戰場の人員、備立《そなへたて》のみを軍法として心得ては、大局の利を收めることは覺束《おぼつか》ない。
城の繩張の善惡を問うた時、利章は云つた。城は亂世に妻子糧米、器具を入れる物置である。百姓町人の土藏と同じである。名將は城廓に重きを置かぬ。忠實な臣下が即城である。諸侯の身の上では天子の外に
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