家からは目附、下目附、足軽小頭に足軽を添えて、乗物に乗った二人と徒歩《かち》の文吉とを警固した。三人が筒井政憲の直《じき》の取調を受けて下がったのは戌の下刻であった。
 十六日には筒井から再度の呼出が来た。酉の下刻に与力《よりき》仁杉《にすぎ》八右衛門の取調を受けて、口書を出した。
 この日にりよは酒井亀之進から、三右衛門の未亡人は大沢家から願に依って暇《いとま》を遣《つかわ》された。りよが元の主人細川家からは、敵討の祝儀を言ってよこした。
 十九日には筒井から三度目の呼出が来た。九郎右衛門等三人は口書下書を読み聞せられて、酉の下刻に引き取った。
 二十三日には筒井から四度目の呼出が来た。口書清書に実印、爪印をさせられた。
 二十八日には筒井から五度目の呼出が来た。用番老中水野越前守|忠邦《ただくに》の沙汰で、九郎右衛門、りよは「奇特之儀《きどくのぎ》に付《つき》構《かまひ》なし」文吉は「仔細無之《しさいこれなく》構なし」と申し渡された。それから筒井の褒詞《ほうし》を受けて酉の下刻に引き取った。
 続いて酒井家の大目附から、町奉行の糺明《きゅうめい》が済んだから、「平常通心得《へいじょうのとほりこころう》べし」と、九郎右衛門、りよ、文吉の三人に達せられた。九郎右衛門、りよは天保五年二月に貰った御判物《ごはんもの》を大目附に納めた。
 閏《うるう》七月|朔日《ついたち》にりよに酒井家の御用召があった。辰《たつ》の下刻に親戚山本平作、桜井須磨右衛門が麻上下《あさがみしも》で附き添って、御用部屋に出た。家老河合小太郎に大目附が陪席して申渡《もうしわたし》をした。
「女性《にょしょう》なれば別して御賞美あり、三右衛門の家名相続|被仰附《おほせつけらる》、宛行《あておこなひ》十四人|扶持被下置《ふちくだしおかる》、追て相応の者|婿養子可被仰附《むこようしおほせつけらるべし》、又近日|中奥御目見可被仰附《なかおくおめみえおほせつけらるべし》」と云うのである。
 十一日にりよは中奥目見《なかおくめみえ》に出て、「御紋附|黒縮緬《くろちりめん》、紅裏真綿添《もみうらまわたそひ》、白羽二重一重《しろはぶたへひとかさね》」と菓子一折とを賜《たまわ》った。同じ日に浜町の後室から「縞《しま》縮緬一反」、故酒井|忠質室専寿院《ただたかしつせんじゅいん》から「高砂《たかさご》染縮緬|帛《ふくさ》二、扇二本、包之内《つつみのうち》」を賜った。
 九郎右衛門が事に就いては、酒井忠学から家老本多|意気揚《いきり》へ、「九郎右衛門は何の思召《おぼしめし》も無之《これなく》、以前之通可召出《いぜんのとほりめしいだすべし》、且行届候段満足褒美可致《かつゆきとどきそろだんまんぞくほうびいたすべし》、別段之思召を以て御紋附|麻上下被下置《あさがみしもくだしおかる》」と云う沙汰があった。本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋《たんものだいせんびき》」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折《まぜさかなひとをり》」を贈った。
 文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎右衛門家来と云う資格で、「格段骨折奇特に附、小役人格に被召抱《めしかかへらる》、御宛行金四両《おあておこなひきんよりょう》二人|扶持被下置《ふちくだしおかる》」と達せられた。それから苗字《みょうじ》を深中《ふかなか》と名告《なの》って、酒井家の下邸|巣鴨《すがも》の山番を勤めた。
 この敵討のあった時、屋代《やしろ》太郎|弘賢《ひろかた》は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。
「又もあらじ魂祭《たままつ》るてふ折に逢ひて父兄の仇討《あたう》ちしたぐひは」幸《さいわい》に太田七左衛門が死んでから十二年程立っているので、もうパロヂイを作って屋代を揶揄《からか》うものもなかった。



底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年5月30日発行
   1985(昭和60)年6月10日41刷改版
   1990(平成2)年5月30日53刷
入力:砂場清隆
校正:菅野朋子
2000年10月17日公開
2006年5月11日修正
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