、格式相当の葬儀|可取行《とりおこなふべし》」と云うのである。三右衛門の創《きず》を受けた現場にあった、癖者の刀は、役人の手で元の持主五瀬某に見せられた。
 二十八日に三右衛門の遺骸《いがい》は、山本家の菩提所《ぼだいしょ》浅草堂前の遍立寺《へんりゅうじ》に葬られた。葬《とむらい》を出す前に、神戸方で三右衛門が遭難当時に持っていた物の始末をした時、大小も当然伜宇平が持って帰る筈であったが、娘りよは切に請うて脇差を譲り受けた。そして宇平がそれを承諾すると、泣き腫《は》らしていた、りよの目が、刹那《せつな》の間|喜《よろこび》にかがやいた。

 侍が親を殺害《せつがい》せられた場合には、敵討《かたきうち》をしなくてはならない。ましてや三右衛門が遺族に取っては、その敵討が故人の遺言になっている。そこで親族打ち寄って、度々評議を凝《こ》らした末、翌天保五年|甲午《きのえうま》の歳の正月中旬に、表向敵討の願をした。
 評議の席で一番熱心に復讐《ふくしゅう》がしたいと言い続けて、成功を急いで気を苛《いら》ったのは宇平であった。色の蒼《あお》い、瘠《や》せた、骨細の若者ではあるが、病身ではない。姉のりよは始終黙って人の話を聞いていたが、願書に自分の名を書き入れて貰うことだけは、きっと居直って要求した。りよは十人並の容貌《ようぼう》で、筋肉の引き締まった小女《こおんな》である。未亡人は頭痛持でこんな席へは稀《まれ》にしか出て来ぬが、出て来ると、若《も》し返討《かえりうち》などに逢《あ》いはすまいかと云う心配ばかりして、果《はて》はどうしてこんな災難に遇ったことかと繰り返してくどくのであった。日が窪から来る原田夫婦や、未亡人の実弟桜井|須磨右衛門《すまえもん》は、いつもそれを慰めようとして骨を折った。
 然るにここに親戚一同がひどく頼みに思っている男が一人いる。この男は本国姫路にいるので、こう云う席には列することが出来なかったが、訃音《ふいん》に接するや否や、弔慰《くやみ》の状をよこして、敵討にはきっと助太刀をすると誓ったのである。姫路ではこの男は家老本多|意気揚《いきり》に仕えている。名は山本九郎右衛門と云って当年四十五歳になる。亡くなった三右衛門がためには、九つ違の実弟である。
 九郎右衛門は兄の訃音を得た時、すぐに主人意気揚に願書を出した。甥《おい》、女姪《めい》が敵討をするか
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